情報誌「ネルシス」 vol.9 2008

P-01 都市の隙間
P-07 「歴史まちづくり法」とはなにか

P02-06
目次
[特集]取材・構成…編集部
歴史を生かすまちづくり

写真はすべて石見銀山(島根県大田市)
撮影:八木祐三郎
地方自治体や民間を問わず、
その地域の「歴史的資産」を活用するまちづくりが盛んになっています。
すでにある歴史的な建物を保存・活用したり、一度壊された歴史的建造物を復元するなど
まちづくりに歴史的価値を付加するさまざまな試みが行われています。
また、2008年5月に「歴史まちづくり法」が公布されたことで
歴史を生かしたまちづくりの機運がさらに高まると期待されます。
海外事例としては、世界遺産登録された
アジアで最もホットな都市・マカオのまちづくりについて報告します。
また、アメリカでは近年「メインストリートプログラム」という、
NPOの活動による歴史的空間を保持しながらの街の再生が注目されています。
今回は「歴史」をキーワードに、まちづくりの新しい動きを紹介します。
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いま、なぜ「歴史」なのか 話し手…西村幸夫氏(東京大学教授)
平成20年5月に「歴史まちづくり法」が公布された。この新しい法律は規制中心だった歴史あるまちのまちづくりに一石を投じる画期的なものだといわれる。
全国の歴史を生かしたまちづくりに深くかかわってこられた西村幸夫氏にまちづくりの「いま」をうかがった。

地形と歴史はまちづくりの基本
地域再生の手がかりを見つける
われわれ都市計画をやっている人間が「まち」を見るときの視点として、「歴史がどうなってきているのか」「地形がどうなっているのか」という2点が基本になっています。高度成長期の日本はバブル崩壊で不況になるまで、この基本を忘れていた傾向にあり、そのことのほうが問題だと思います。最近ようやく、その基本に立ち戻ってきているということではないでしょうか。
 これまでの地域づくりでは、過去を否定して、もっといいものができるという考えがあった。昔にくらべて「まち」はどんどんよくなり、新しく造るものはすべて優れているのだ、と。さまざまな制度は全部そうなっていると思います。技術も進んでいるし、そう考えている建築家も多い。しかし、右肩上がりの時代はそれでよかったかも
しれないが、今は必ずしもそういう時代ではなくなってきている。
 地方都市での大きな再開発は難しく、環境問題の視点からも、頻繁に「まち」を変えることは好ましくありません。すでにあるものを大事に使っていく、とりわけ、昔から残っているものはその地域の特色をつくっているわけですから、大事にしていったほうがいいのではないか、と考えるようになってきた。技術に沿えば画一化していきますが、地形や歴史にこだわれば、ほかにないものになります。個性を大事にする時代だからこそ、「歴史」が地域再生のひとつの大きな手がかりになると思います。
 最近の若い人たちは歴史が大好きです。古い建物も好きですしね。歴史が嫌いなのは団塊の世代だけです。競争してがんばってやってきた彼らは、過去の人たちを否定して自分たちがいるという世代ですから。五十代、六十代の人は、

歴史を大切にするようなものを造ったら若い人たちに受けないんじゃないかと言いますが、逆なんですね。だから成功体験の強い団塊世代のある種の人がまちづくりをやると、ちょっと怖いことになる。若い人のほうが、ヒューマンスケールの古いものが落ち着けると評価し、そういう空間を大切に思っていますよ。
人々の合意形成で変わるまち
犬山城下町と石見銀山
最近携わっているまちづくりで、おもしろい動きをしているのは愛知県犬山市の犬山城下町です。犬山は1971年に都市計画決定された城下町の本町通線と新町線の16mの拡幅を、住民と行政で長期間にわたって議論した末、中止することに決めたのです。犬山城へ真っすぐに向かう6mくらいの道はそのままで、電柱の地下化と歩行者空間の整備が行われることになった。昔の城下町の骨格を守るという方針が決まると、お店がけっこう戻ってきたりするんです。10軒近い店がオープンして、観光客も増えているようです。これまでの観光客は、
犬山城が国宝だからお城には上るけれど、まちは素通りして明治村に行ったりしていたわけですから、そういった変化がある。
 歴史のあるまちというのは、昔から豊かな食文化をもっています。城下町には必ず有名な和菓子屋があり料亭があります。観光地としての魅力がもともと備わっている。そうした資源をうまく活用することで「まち」がよみがえっていきます。

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 2007年7月に世界遺産に登録された島根県大田市の石見銀山では、400台分の駐車場を3km離れたところに造り、そこから歩くか定期バスだったのですが、環境への影響を考えて定期バスをやめ、電気で走るシャトルバスを運行するようになったそうです。そもそも駐車場の位置を決めるときも、そんなに離れたところでいいのかという議論があったのですが、多少不便でもそれをよしとするお客さんに来てもらいたいということになった。それと、私設の有料駐車場は造らないことに住民みんなが合意したそうです。これはなかなか、たいしたもんだと思いますよ。私設の有料駐車場を造ってしまうと、まちの中にまで車が入ってきますし、それを生業にする人が出てきて、あとで禁止することが難しくなってきますからね。こうした取り組みが「石見銀山方式パーク&ライド」の社会実験につながっていっています。
 石見銀山のある大森というところは昔からまちづくりが盛んですが、
最初からみんなが世界遺産登録に賛成だったわけではありません。というのは、大森のファンとなって通ってきているお客さんたちを大事にしてきた一部の地元の人たちは、にわかに押し寄せる観光客によってまちが変化することを懸念していました。しかし世界遺産登録ということが避けて通れないのであれば、ちゃんと話し合いをして受け入れ態勢を整えていこうと、市が仲立ちをして進めていきました。私は10年くらい前から個人的に地元とかかわってきましたが、世界遺産登録の話が出てからは「石見銀山協働会議」のアドバイザーになっています。
 実際、世界遺産になったことで予想以上の観光客が訪れています。15分ごとに走るバスの振動や、ピーク時は1時間以上の駐車場待ちの列ができるなど、さまざまな問題が出て地元は試行錯誤していますが、全体としては、観光客を迎える体制が徐々によくなってきています。

都心で復元される歴史的建造物
「特例容積率適用区域制度」で変わる東京駅周辺
最近になって、赤レンガの東京駅や三菱一号館の復元が話題ですが、重要文化財となった明治生命館など、もともと丸の内には、残すべき高い質をもったものがたくさんありました。今までは、残すより壊すほうがはるかに多かったわけですが、少なくとも残す手立てや可能性のあるものは、やはり大事にしていくべきです。幸いにして丸の内の道路の骨格は守られているので、建物は変わっても空間の構成は受け継いできている。それが大事です。せっかくあるものは生かしたほうがいい。東京駅がなぜ赤レンガかといえば、三菱一号館があったからです。馬場先通りの、かつて「一丁ロンドン」と呼ばれたオフィス街は、赤レンガの建物が連なっていた。だから辰野金吾も赤レンガで造ったわけです。古いものはみんな壊れてしまって、今は東京駅しか残っていませんが、それもこのあたりの記憶のひとつなんです。建築だけの大事さだけでなく、地域の記憶としても大事です。
 東京駅の復原(*)は、もともと3階建てだったのが戦災で2階建てに建て替えられているものを当初の姿に戻すというものです(1914年建設、1947年修復)。これまでネックになっていた復原の費用は、使っていない空中の容積をほかに移転させて得られた収入を充てます。東京駅周辺の高層化は、そういうことで行われている。「特例容積率適用区域制度」といいますが、日本で面的に認められているのは2002年に指定された「大手町・丸の内・有楽町地区」(116.7ha)だけなんですね。こうした制度は、もともとはアメリカのシカゴで生まれた「移転開発権」と呼ばれるもので、ニューヨークのグランドセントラル駅の保存で実施されました。日本でもこの制度を活用して、JR東日本は東京駅丸の内側の赤レンガ駅舎を戦前の3階建てに復原することを決めたのです。
 ただし、こうした手法は、開発圧力のある大都市部でないとうまく機能しません。容積が足りないと思うから、ほかから買ってまで高い建物を建てようとする。ですから開発圧力の低い

地方都市では利用できません。そこで登場したのが、今年施行される「歴史まちづくり法」です。
地域の歴史資産が生かせる
「歴史まちづくり法」
これまであった「景観法」というのは、ある種、規制強化の法律です。これから建てるものに対して規制をすることはできますが、朽ち果てつつある既存の建物を買い取って修復することに対する補助はなかった。ところが今年できた「歴史まちづくり法」は規制をするのではなく、歴史を生かす意味での緩和を認める法律です。例えば、これまで出店できなかったところに出店できるようになったり、修復などに補助金が出たりする。その意味で、景観法が“ムチの法”だとすれば、歴史まちづくり法は“アメの法”といえるでしょう。「まちづくり交付金」などもありますが、補助対象のメインはハード事業です。それ以外の復元のようなものは「提案事業」といって、ある予算の枠のなかでしかできなかった。
それをメインの基幹事業として評価するというのが今回の「歴史まちづくり法」です。
*編集部注:「復原」と「復元」の使い分けについて……本特集では、失われて消えてしまったものを旧に復することを「復元」とし、はじめの姿が改造・変化してしまった現状を、もとの姿に戻すことを「復原」として使い分けています。東京駅については「復原」を用いました。

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 こうした法が整ってくると、地方の特色をより出せるようになってくる。そうなると、新たに広域調整の問題が出てきます。郊外型ショッピングセンターに対する規制が強化されましたが、中心市街地と郊外だけでなく、さらに広域の発想が必要になると思います。
まちの物語を読み解く
古地図片手にまちを見る
どのまちにも物語があります。そういうものを大事にしながら、住んでいる人が、ここに生まれてよかった、住んでいてよかったと思えるまちにしていく。「まちづくり」はそうでないと意味がないですからね。魅力的な人が住んでいる、魅力的な祭りがある、素敵なお店がある、自慢できるものがあるなど、住んでいてエネルギーになるさまざまなことを丹念に掘り起こして、まちづくりの手がかりにする。
「歴史」というのは、その中のかなりの部分を占めると思います。
 歴史をまちづくりに生かす場合、どの時代でもいいと思っています。特定の時代にこだわるとテーマパークのようになってしまい、それも不自然です。ある時代のものがしっかり残っているところはそういうやり方もありますが、大半のまちは、いろいろな時代のものが混在している。混在にこそ歴史の奥行きがあり、それぞれに異なる物語が内在していて、それも個性ととらえることができるでしょう。
 古地図片手に実際まちに入って、どうやってまちができてきたのか、なぜここに集落が立地したのか、地形との関係や、道の必然性などがわかってくると、まちは俄然おもしろくなります。当たり前と思っていたことに理由が見えてくる。まちの物語が見えてくる。われわれはフィジカルプランナーだから、まちづくりにあたって、

そういったことを手がかりにし、意識的にまちを見る目を養っています。空間を読み解いていくにはそれなりのトレーニングが必要なのです。
パブリックな視点
専門家に求められる資質とは
昨年は後藤新平の生誕150周年でしたが、彼は震災復興で東京をつくった人です。文京区から浅草にかけては、そのときにできた都市の骨格がそのままです。後藤新平がつくった都市が今まで生きているんです。すごいことですよね。彼は7年間で復興を成し遂げた。
 後藤新平の時代とは違って、今日のまちづくりでは、みんなで少しずつなにかやっていく、というようなところが多い。都市計画の専門家は、合意形成を進めていくある種のファシリテーターの役割が強くなってきていますね。
基本的には住民が決めるのですが、問題意識をもっていない人もいますから、ある程度意識づけをしながら、こちらも提案していく、というような仕事が多い。けっこう時間もかかるし、大変です。まちを再発見しておもしろいと思える人でないとだめですね。ですから、コンピュータでシミュレーションをやっているのが好きだというだけでは困ります。最終的に人の生活をよくするというのがあるので、実感がもてることが重要です。100人には100通りの生活があり、すべて体験することは不可能。しかし想像することはできます。ある種のイマジネーションをもって、さまざまな人の生活をとらえ、その先を考える。それが、われわれ専門家に求められる資質といえるでしょう。
 もうひとつ、まちづくりにとって「パブリックな視点」をもつというのはけっこう大事なんですね。ルールを決めて高さを規制したりしますが、

その場合、なんのために制限を課すのか。それが結果的にみんなのためになるんだ、と思えないと、わざわざ自由を拘束する必要はありません。海岸のゴミ拾いなんかもそうですよね。一人でゴミを拾うのは理不尽に思うけれど、みんなでやって海岸がきれいになれば、それに越したことはない。みんなのためになるということが信じられるから提案ができる。そういうセンスが大事だと思います。公共空間が自分のものと感じられるセンス。そういうことを感じるきっかけのひとつが「歴史」なのです。「歴史」は共有できますからね。地域の歴史ですから、自分もみんなもそこに関係してくる。「歴史」は、これからのまちづくりにおいて、ますます重要な手がかりになっていくと思います。

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