情報誌「ネルシス」 vol.9 2008

P-08 歴史と文化が積層した街・丸の内
P-14 3つの歴史的な広場再生を通したマカオのまちづくり

P12-13
目次
変貌する丸の内界隈 三菱一号館の復元とまちづくり
パース資料提供……三菱地所株式会社
丸の内仲通り
丸の内の歴史と
復元への機運
丸の内は100年以上の歴史がある。「三菱ヶ原」と呼ばれたこの一帯は、諸大名の屋敷跡を、明治政府軍が仮の兵舎としていた。明治5年(1872)の大火で焼け野原になったあと、明治政府は兵舎を麻布に移転させることを決め、移転・新築費用の捻出のためにこの一帯を売却することになる。いくつかの財閥に声をかけるが、地代が高すぎてなかなか買い手が見つからなかったところ、明治23年(1890)、三菱社が一社で買い取ることに決まった。
 三菱社には当時から、
丸の内をオフィス街にしようという構想があったという。そして土地購入後、最初に建てられたオフィスビルが三菱一号館(明治27年〈1894〉竣工)である。建築家は、明治10年(1877)に来日し、工部省営繕局顧問をしていた英国出身のジョサイア・コンドル。彼は生涯をかけ、日本の近代建築の基礎を築いた。
 その後、馬場先通り沿いには赤レンガのオフィスビルが徐々に建ち、「一丁ロンドン」と呼ばれるオフィス街へと成長していく。ビジネスセンター・丸の内の第一期がこの時期で、その後、昭和30年代〜40年代にかけて、高度経済成長を背景に8階、9階建ての
近代的なビジネスセンターに変貌した第二期がある。そして平成10年(1998)から、超高層のオフィスビルへの建て替え、多機能な街を目指す第三期を迎えている。
 そうした時期に、なぜ三菱一号館が復元されるのか。三菱地所株式会社広報部主事の服部創一氏にうかがった。
 「平成10年から始まった丸の内再構築は、これまでのビジネス一辺倒から“多機能なまち”を目指すものです。今日、東京駅前には商業施設が充実し、土日も来街者であふれています。丸の内仲通り沿いにはかつて金融機関が入居していましたが、今では

ブランドショップなどの路面店が軒を連ね、有楽町、銀座までつながる通りに変貌しました。平成10年からの10年間は丸の内再構築の第一ステージとし、“東京駅前に活気とにぎわいを創出”することをテーマに、丸ビル、新丸ビル、オアゾ、東京ビル、信託ビルなど東京駅周辺において重点的に建て替えを進めてきました。そして、平成20年(2008)からの10年間は第二ステージと位置づけ、東京駅前に生み出された活気とにぎわいを、大手町、丸の内、有楽町全域に波及させようとしています。商業機能は世間に認知されてきましたが、次のステップとして『文化、歴史』にも
取り組むことになりました。文化発信拠点の中核施設となるのが三菱一号館です。これを復元し、美術館として利用する計画が現在進められています」
さまざまな条件が
そろって実現した復元
丸の内再構築の第二ステージのキーワードは「拡がりと深まり」だという。「拡がり」は大手町、有楽町を含めた面的な広がりのこと。「深まり」は文化、芸術、歴史など、まちの魅力を深めていこうというものだ。三菱地所株式会社ビルアセット開発部主事の榑林康治氏は、まちが生き続けるためには、
都市の記憶を感じさせるまちの深まりが必要だと語る。
 「明治の建物を昭和40年代まで使い続けておりましたから、三菱一号館には会社としても思い入れがあったはずで、昭和43年の解体時には相当悩んだと思います。解体に際しては、近隣ビルの地下に設計図のほか、窓枠や床材など多くの部材を保存しました。その時点では将来復元することまで想定していたかどうかわかりませんが、貴重な社会資産だという当時の経営陣の思いがあったのだと思います。
 その後、小泉政権のもとで『都市再生特別措置法』が成立。

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上左●完成後は美術館として使用される三菱一号館内部の展示スペース
上右●完成後の三菱一号館と丸の内パークビルディングの外観パース。昔、このあたりには31mという建物の高さ規制があったため、丸の内パークビルディングも、低層部と高層部の形状を違えて31mラインを表情線として残すことで、歴史の記憶を継承している。また低層部の一部には、再開発に際して解体した丸の内八重洲ビルの外壁の一部を再利用している
下左●三菱一号館内に設けられるカフェのイメージ

“文化、歴史”などの機能を導入した都市開発が都市の再生に貢献するものとして評価され、容積率の割増が得られる可能性が出てきたこともあり、第二ステージのコンセプト『深まり』を実現すべく、三菱一号館を復元することになりました」
 こうして、丸の内発祥の象徴ともいえる三菱一号館が甦ることになったのだ。
材料にこだわった復元
復元に当たっては、歴史を尊重した重層的なまちづくり、都市の記憶の重要性の観点から、可能なかぎり忠実に復元することを目指している。
 三菱一号館はレンガ積み構造で、
全部で約230万個ものレンガが使用されていた。このレンガの復元に際しては、中国の工場で、ひとつひとつ型枠に土を詰めてプレス成型したものを窯で焼く、という昔ながらの製法を採用。その方法により、オリジナルの風合いに近くなるという。
 そのほかにも、基礎石から屋根のスレートまで、当時使われていた部材の石種、産地などを各種資料から調査し、できるかぎり同じものを調達すべく、各所を当たった。
 「屋根のスレートに関しては、東京駅と同じ国内産のものを使っていたようですが、当時に比して現在の生産量が非常に少ないことから、今回、必要量すべての材料調達ができませんでした。
各海外産のスレートの物性や色調などを入念に比較検討し、スペインから調達することにしました」と榑林氏は話す。
 また、施工に当たっても、忠実な復元に最大限こだわっている。レンガは写真や立面図から「イギリス積み」であることがわかっているが、外部から見えないレンガがどのように積まれていたのかまでの設計図は残っていない。三菱地所設計の担当者は、どう積むべきか種々の資料を調査し、すべてのレンガの割り付け図を施工図として完成させたという。
 「もちろん積むのも手作業なので、レンガ積み経験のある職人を日本中探し、技量試験を行ってその技量を確認しています。

コンドルの設計では、レンガとレンガの間に帯鉄という鉄の板を入れて補強をしていました。そういうところもすべて再現するようにしています」(榑林氏)
 なるべく当時に忠実に再現しようとする意気込みが感じられる。一番の難問であった耐震については、建物の下に免震装置を設置することにより、十分な耐震性を確保した。
価値を高めながら
歴史を継承する
復元される三菱一号館は、三菱地所が直接運営する美術館として利用される。
平成22年(2010)4月オープン予定で、建物が1890年代のものであることにちなみ、19世紀の西洋美術を中心とする近代美術に焦点を当てるという。丸の内の就業人口は約24万人。お昼休みや会社帰りの利用も十分に期待される。
 「都市の記憶や思いは残さなければいけないでしょうが、やはり、まちには新しい価値を付加していく必要があると思います。しかも次世代にとってよりいいものにならなければならない。『日本工業倶楽部会館』は部分保存の事例ですが、建物自体の位置を少し動かすなどして、新築するオフィスビルとの
一体感を創り出す工夫をしています。また『明治安田生命ビル』と『明治生命館』の街区は、重要文化財の全面的な保存と最新のオフィスビル開発をうまく融合させた例だと思います。このように、歴史を継承しつつも、利用者の利便性やまちとしての機能向上も実現していくことが大切ですね」(榑林氏)
 丸の内エリアでは今後も、東銀ビルの建て替えをはじめとした、いくつかの再開発が予定されているという。丸の内の、歴史と文化の「拡がりと深まり」をもったまちづくりに、今後も注目していきたい。

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