情報誌「ネルシス」 vol.9 2008

P-12 変貌する丸の内界隈、三菱一号館の復元とまちづくり
P-20 街なか再生を実現するメインストリートプログラム手法

P14-19
目次
3つの歴史的な広場再生を通したマカオのまちづくり 文……八木祐三郎(都市環境研究所研究員) 写真提供……澳門民政総署
1887年から長い間、ポルトガルの統治下にあったマカオ。そのことでエキゾチックな街並みを有している。
1999年の中国返還後、老朽化していた歴史地区を修復し、散策できるまちづくりに取り組んだ。その歴史地区が
2005年に世界文化遺産に登録されことから、一気に観光都市へと変貌しつつあるマカオのまちづくりを紹介する。
世界遺産登録された
聖ポール天主堂跡
セナド広場の奥はショッピング
アーケードになっている

2つの街のイメージ
マカオは、香港から高速フェリーで南西に1時間ほどの位置にある。マカオ半島(主要部)と2つの島(タイパ島、コロアン島)で構成されており、正式名称は、中華人民共和国マカオ特別行政区。面積は約28.6km2(東京都世田谷区の約半分)と非常にコンパクトだ。いま「マカオ」という名前を聞いて、多くの人はどのようなイメージをもつだろうか。予想するに「アジアのラスベガス」と「世界遺産」であろう。
 ひとつは「アジアのラスベガス」というイメージ。賭博自体は19世紀から存在しており、現在でも賭博の資金源として利用された質屋(今でいう銀行の役割を担っていた)が街の中に点在している。しかし、昨今のカジノブームに火がついたのは、中国本土からの個人旅行が解禁され、さらにカジノ経営権が外国企業に開放されたことが要因として挙げられている。

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 また、2006年にマカオのカジノ収入がラスベガスを超えたのは周知のとおりであり、特に、近年のマカオの建設ラッシュはすさまじい。タイパ島とコロアン島の間を埋め立て、そこにリゾート地「コタイ」(「コタイ」は2つの島の名前に由来している)が造られた。中国本土とつながっている半島側も、埋め立て地に数々のカジノが造られ、ここ数年で今までの街と風景を変えている。そうして現在、マカオは一大リゾート地として、アジアを越えて世界に名を馳せるに至ったのだ。
【図】かつての海岸線と広場・教会など

 もうひとつは「世界遺産のマカオ」というイメージ。2005年7月に「マカオ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録され、5年前は旅行雑誌でほとんど香港の裏に隠れていたマカオも、最近では旅行パンフレットの一面を飾ることが多くなった。
 世界遺産に登録された「歴史地区」とは、8つの広場と22カ所の歴史的建築物およびその周辺(バッファゾーン)。多くは16〜18世紀に建てられた街の中心部にある教会や修道院、廟などの宗教建築であり、なかには、城壁や広場など建築物ではないものも存在する。パンフレットでよく見かける聖ポール天主堂跡やセナド広場など、歴史地区にはポルトガル植民地時代の面影が色濃く残されているものが多い。それらは
何も手を加えないままの状態で登録されたわけではなく、ファサードや内装などの修復を施して、かつての姿を取り戻したものも少なくない。一部には今現在も修復を続けているところがある。
 15年ほど前、街の中心に位置する広場は、道路が敷かれたことで多くの車であふれ、歩行者が気軽に歩けるような場所ではなかった。広場によっては駐車場として利用されているところもあり、歴史的空間としての位置づけはなされていなかった。しかし、街の歴史を読み解き、街に点在する建築物・広場に歴史的価値を見いだしながら修復・再生を積み重ねてきたことが、今日の歴史地区としての世界遺産登録につながっている。特に、公共空間である
広場の再生は、住民に憩いの場を提供しただけでなく、観光客が小規模なマカオの街を歩くのにちょうどいい休憩場所となっている。
歴史的位置づけと
都市再生までの経緯
マカオは16世紀の大航海時代、ポルトガルが布教・貿易を目的に、中国(明朝)からの租借地としてこの地を開拓し、数々の教会、広場が建設された。教会は丘の上に多く建てられ、それらをつなぐように尾根沿いに道が通り、ポルトガルに似た坂の街がこの地にもつくられたのである。教会はそれぞれ教派が異なり、布教による利益追求型の教派(聖ドミンゴ教会など)は

商業地から近い丘の裾(海側)に建てられ、象徴性を重視した教派は土地の高低差を利用して丘の上に建てられていることが多い。それらの教会の前には広場が造られ、そこは人々が憩い、宗教活動や商業に欠かせない場所となった。特に、ポルトガル統治時代からマカオの街の中心に位置していたセナド広場は、1784年に街の自治組織が行政の場として「LEAL SENADO(行政議会)」を広場前に建設したことから、街の中心地として、より明確に位置づけられた。
 今は、埋め立てにより海岸線の位置が変わったため、広場は海から遠く離れているが、当時は多くの広場が海の近くにあったことがわかる【図】。海から貿易によって
もたらされた物資が降ろされ、教会前の広場がその売買の場所としてにぎわっていた。その後、長い歴史のなかでマカオの海岸は、珠江から運ばれる土砂により徐々に埋め立てられ、海側の土地には華人街が造られた。華人街の発生は近代のマカオの発展を支えるものであったが、ポルトガルがつくりあげた広場と港との関係を薄め、さらに、高密に建てられた華人街の町家では多くの火災を招いた。それらを解決するため、ポルトガル海軍は大規模な埋め立て事業と都市改造(区画整理)を1850年ごろから行うようになる。
 都市改造は、1910年、防災のための住環境の改善、商品運搬など交通機能の改善を目的に行われた。セナド広場と
港(内港)を明確につなぐ新たな都市軸(新馬路〈サンマーロ〉)が通され、通りの先には内港沿いにある埠頭のなかでもひときわ大きいものが造られた。新馬路沿いにはアーケード付きのショップハウス(店舗併用住宅)が立ち並んでおり、その姿は今も残されている。
 マカオは港を拠点に広がった街であり、広場は港との関係を近代に入ってもなお保とうとした経緯があることがわかる。このように、マカオにとって広場は単なる屋外空間ではなく、おのおの特徴・象徴性をもったものであったが、モータリゼーションや人口の高密化などによって広場の内部に自動車が通り、人が主体の空間から自動車主体の空間へと変わってしまったのである。

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波型模様の美しいモザイク舗装で新たに再生されたセナド広場
1994年当時のセナド広場 
3つの広場の再生
マカオの街の再生は、マカオ政府により、街の中心にあるセナド広場を皮切りに行われるようになる。再生される前のセナド広場は、広場の大部分が車道化されていて、道と道の間に大きな噴水が設置されていた。広場のなかでありながら、一般的な公道として使用されており、

建物沿いには多くの車が路上駐車をしていた。象徴性のある場所としての意識はあるように思えるが、人が生き生きと活動する広場の姿にはなっていなかった。
 1990年前半、この「自動車主体」の空間を「人主体」の空間へ、新たに再生する計画が立てられた。整備目標は以下の4つである。
1.歩行者にとって快適な空間、憩いの場を提供すること
2.街に調和した伝統的材料を使用し、ランドスケープを意識したストリートファニチャーを使用すること
3.国籍を問わず多くの人々に受け入れられる広場にすること
4.自動車による環境汚染や騒音を和らげる広場にすること
 この整備目標は、
あとに続くほかの広場の再生でも採用されており、広場再生の重要項目となる。
モザイク舗装で中心性を
取り戻したセナド広場
新たに再生されたセナド広場には、うねうねとした美しい波型模様のモザイク舗装が施されている。これは海の波を表しており、この地が貿易港として開拓され発展したことを意識していることがわかる。この大胆な模様はセナド広場の重要な顔として存在し、広場の周りの建物ともうまく調和している。ここを訪れた人は、この力強い波型模様とともにセナド広場を記憶するだろう。
 ポルトガルの首都リスボンにあるロシオ広場も同じような波型模様に
舗装されており、この広場をモデルとして造られたのではないかと思われる。
 波型模様をつくり出すのは5×5cmの白い石灰岩と黒い玄武岩である。この小さな石を敷き詰める舗装は、ポルトガルでよく見られるコブルストーン(cobble stones)というもので、マカオの広場再生で多く用いられている。マカオの街を歩くと、このコブルストーンによるさまざまな舗装の模様を見かける。幾何学的なものもあれば、植物や動物をモチーフとしたものもあり、街を歩く人々を楽しませてくれる。この舗装は、模様の形に沿って立てられた木の型枠の中にモルタルを流し込み、その上に石を配して施工されている。セナド広場の舗装工事では、

ポルトガルから職人(calceteiros)を派遣し、施工方法を現地の職人に伝えながら工事を行った。セナド広場は、広場の再生と同時に、技術の継承を行う場所となったのである。
 石のほとんどがポルトガルから輸入されているが、設計者によっては中国本土やオーストラリアなどから輸入することもある。しかし、ポルトガルでは5×5 cmのサイズに切って売り出されており、輸入後に5×5cm角に切る手間や人件費を考えると割安なため、ポルトガル産がほとんどだそうだ。
 広場の大部分を占めていた噴水は新たに造り直され、噴水の中心には、かつてのスペインとポルトガルの勢力圏を示す境界線を描いた地球儀の
オブジェが置かれている。さらに、車止めや街灯などのストリートファニチャーは、広場とその周辺の建築物の統一感を意識したクラシカルなデザインを採用している。
 このようにして1994年、セナド広場は、祭事の空間、人々が集い憩う空間、観光客の集合場所として、マカオの中心地としての再生を遂げた。1999年には、新馬路側の歩道も舗装工事を行い、セナド広場と新馬路の一体性がさらに強化された。そして、セナド広場再生の成功をきっかけに、次々とほかの広場も再生されることとなる。
時代考証を重視した
カテドラル広場の再生
カテドラル(大堂)は
マカオのなかでも宗教的意味合いが強い場所で、毎年、復活祭に行われるキリスト受難の行進はこの教会が起点となっている。また、徳川幕府の時代に殉教した長崎の日本人キリシタンの遺骨が安置されていたこともあり、日本人キリシタン迫害の歴史と関係の深い場所として知られている。こうした背景をもっていながら、カテドラル広場は1999年まで駐車場として利用されていた。広場を含めた周辺では、交通渋滞による衝突事故の増加や騒音と排気ガスによる環境汚染、また、歩行者空間の狭窄による自動車速度の増加など交通面での問題があり、それらを解決するため、広場の再生が行われた。

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再生後のカテドラル広場は、車が排除された落ち着きのある空間になっている
路上駐車で埋め尽くされた再生前のカテドラル広場
下(4点)カテドラル広場の再生では、風水の観点から隅切りが行われ、西洋式の噴水が造られた

 カテドラル広場でもコブルストーン舗装が施され、歩道と車道を明確に分離している。また、道路を緩やかなカーブにすることでスピードの緩和を図っており、駐車場になっていた広場は、新たに噴水や椅子などを設け、中心商業地から一本裏側に入った穏やかな広場として住民に利用されている。
 カテドラル広場の再生事業は、セナド広場再生後にすぐ行われているが、工事までの準備期間として5年もの歳月がかけられている。その歳月は歴史調査・研究や、専門家や建築家といった技術者、石材などの職人、周辺住民との協議に費やされており、再生事業の意味を認識しながら進められた。
 広場のデザインについては、
広場全体の統一のとれたデザインを目指しており、周辺住民の意見のなかにも「時間軸がバラバラなデザインは歴史的空間の統一感を壊してしまう」との懸念が挙げられている。特に、広場にあるモニュメントの素材やデザインに重点が置かれているのがカテドラル広場の再生事業の特徴である。福建省出身の石職人が、16世紀後半に建設されたカテドラルや聖ポール天主堂跡などの工事を行っていることから、本事業のなかで、福建省の全州へ視察に行き、石材を使ったデザインや質、施工方法などを確認している(マカオに初めて定住した中国人が福建省全州出身の漁民であり、そこから福建省の職人たちがマカオに定住した)。
これらのデザインは職人の積極的参加・発言によるところが大きく、広場におけるさまざまな彫刻などのディテールは、設計者が当初計画していたものから変更されている。
 地元の職人の意見から、広場の角は風水の思想による隅切りが行われ、そこには西洋の噴水が置かれた。こうしたマカオ独自の文化の融合を残すことは、歴史調査・研究の点でも重要項目として挙げられている。カテドラル広場を囲んでいる建築群(学校や司教の官邸)は、ポルトガルと中国の両方がベースとなった混合様式であることが明らかとなり、広場の再生にはポルトガルと中国の要素をともに残したものにすることになったのである。

広場として再生されたタイパマーケット
上左マーケットとして活用されていた当時
上右タイパマーケット再生のための舗装工事

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上左聖ポール天主堂跡からの眺め 上右建物と道が整備され、車止めもクラシックなデザインに 下左カテドラル広場付近 下右聖オーガスティン広場
広場として再生した
タイパマーケット
タイパ島は小さな漁村しか存在しなかったが、19世紀後半から人口が増加し、18 96年には1万2802人が島に定住していた(水上生活者含む)。その後、いくつかの公共施設が建てられたうちのひとつが、タイパマーケットだ。マーケットでは、魚介類や島で作られた農作物が売買されており、主にマカニーズ(ポルトガル人と、中国人などアジア圏の混血)によって利用されていた。建物は、ドリス式柱(西洋的要素)に中国式の切妻屋根(東洋的要素)が架けられているだけのシンプルな造りで、
屋根の下には布が掛けられていたという。この場所は、迷宮的な路地を多くもつ街の玄関口であり、タイパ島の商業中心地としてにぎわうようになる。
 しかし、徐々にマーケットとしての機能を失ったこの場所は、街の中心部に位置するにもかかわらず、倉庫や車の修理場として使われるようになり、周辺には壁が建てられた。マーケットのわきからは商店街が続いているが、壁が空間の連続性を遮断していた。この状況を、マカオ政府は問題としてとらえ、マーケットを公共空間の広場へと再生することを決めたのである。
 マーケットの建物の修復と併せて、コブルストーンの
舗装工事がここでも行われた。また、マーケット全体を覆っていた壁を壊し、見通しのいい広場として再生されている。さらに、広場のモニュメントは龍の形をした低い壁で、龍のモチーフはタイパ島の昔の名前から得ている(広東語で「龍環」という)。タイパマーケットは商業の中心地から文化活動の中心地として再生され、周辺の文化遺産(図書館、廟、教会など)の保存再生活動の皮切りとなったのである。
広場再生からのスタート
広場の再生は、

過去の用途をそのまま再現したものばかりではない。しかし、セナド広場、カテドラル広場、タイパマーケットの再生には、歩ける空間づくり、活動の拠点づくりなどの共通点があり、結果として、再生された場所だけでない、周辺をも含めた再生事業になっている。その土地の意味・重要性を歴史から習い、現在の問題点・課題に対してどうすればいいかを、おのおのの場所に合った方法で解決していることが、広場のにぎわいを甦らせている。
 現在もマカオでは、埋め立てなど都市開発が頻繁に行われており、
ウォーターフロントではさまざまなカジノやホテルの建設が進んでいるが、世界遺産登録という一面ももっており、そのふたつがマカオの顔となっている。
 しかし、世界遺産に登録された地区以外にも、マカオの街には魅了される場所が残されていることに気がつく。ヨーロッパ圏に多く見られる迷宮的街路・街区に、ケージを張り巡らせたアパートという空間構成は、マカオの街の中心地で多く見られ、西洋的要素と東洋的要素がミックスされたマカオのひとつの魅力である。また、都市改造で敷かれた新馬路や、海側に存在する華人街など、
近代の発展を支えた場所も多く残っている。
 今後、これらをどのように都市のなかで活用していくのだろうか。広場の再生は序章であり、マカオの街の再生はまだ始まったばかりかもしれない。

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歴史的広場再生の結果と課題
フランシスコ・ビゼウ・ピンヘイロ氏(談)

広場再生による経済効果
それぞれの広場を再生する際に、反対意見も出ました。特にセナド広場では、広場の奥まで自動車を排除する計画でした。「車を排除することで店の売り上げが下がってしまうのではないか」「駐車のスペースがなくなってしまう」「搬入搬出のアクセスはどうするのか」など地元(主に商業者)から強い反対がありました。しかし、広場の再生を行ったことで、周辺住民のためのフリースペースとなって人が集まり、さらに観光客もセナド広場を街の中心として認識し、結果として広場沿いの店舗には多くの客が集まるようになったのです。
 不動産の観点では、再生を行った広場周辺の地価は
再生前より50%上がり、場所によっては、それ以上の伸びを見せるところもあります。広場再生を切に願ったマカオ政府、民間企業、周辺住民の結束・協力が広場再生(歩道化)を可能にし、結果として、周辺住民や商業者にとっていい効果を生み出したのです。しかし、すべての人にとっていい結果になったわけではなく、海外の量販店などの進出によって小さな商店が移転することになってしまったのは、少し残念に思っています。
歴史的建造物の保護と規制
街においてその場所がどのように使われていたか、また、建物はどのような用途で利用されていたかなど、土地や建物の記憶・記録を
保護することが、1992年に制定された法律で定められています。その法律により、歴史的建造物や城壁などの遺産はリスト化され、保護・規制がかけられましたが、その場所や建造物をどう再生するかのガイドラインがない状態で再生事業がスタートしました。ガイドラインがないため、遺産保護のプロジェクトごとにプロセスや取り組み方が異なっていますが、セナド広場再生を皮切りに、多くの広場再生は共通の重要整備項目をもつようになったのです。
 再生事業のための調査結果として、過去に社会的重要性をもつなど意味合いの強い場所に対して、もう一度その意味づけをすることが街の再生に効果的だということがわかりました。つまり、再生とは、

その土地がどのように利用されていたかを研究・調査し、その利用目的が継承・記憶されることが重要なのです。
 また、再生の整備手法として重要なのは、過去にあった状態を100%そのまま整備するのではなく、過去にあった伝統的手法を生かすことです。カテドラル広場では、石職人による伝統的整備手法を用い、住民や行政、専門家などが手法の文化的背景や歴史的イメージを共有することで、車道から歩道への空間利用としての広場再生に加えて、デザイン的要素の継承・記憶がなされています。
 マカオは歴史地区として世界遺産に登録されましたが、初めの登録申請を行ったとき、広場は世界遺産の指定箇所に入っていませんでした。
しかし、長い歴史のなかで活動の場として利用されていた広場が明確に再生・維持されていることをイコモスやユネスコの専門家が評価したこともあって、これらの広場は登録へと至ったのです。さらに、歴史地区の空間構成の基礎となっている歴史的建造物と街路・広場のネットワークが評価の対象となっています。
広場再生から今後の課題へ
街の文化的独自性を保つためには、単体の建物を保存するだけでは十分な結果は得られず、周辺の建物の外観などを含めた広いエリアでの再生が効果的だということがわかりました。また、過去10年間での再生事業を調査研究したところ、再生を行った場所と、
そうでない場所(例:カモンエス広場、内港沿いの華人街など)の格差が激しく、人気の高さや観光的視点から見ても、再生していないところは価値が見いだされていないことがわかります。
 現在、マカオ半島の広場の再生事業はほぼ終わり、タイパ島、コロアン島も10年間で完成しました。現在は、街のなかの一部で建築規制はかけられていますが、街全体のマスタープランやガイドラインがない状態なので、その作成に向けてマカオ政府として調査・研究を進めています。
 今後は、再生されていないエリアを街全体のなかでどのように位置づけるかが課題となっています。

左●カテドラル広場の再生時に行われた住民説明会
中●華人街にある町家には今でも人が住んでいる
右●リニューアルされた民政総署

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