情報誌「ネルシス」 vol.2 2001

P-10 [特集]未来系のまちづくり 理想の町を求めて【ケントランド/セレブレイション】
P-20 遊びの未来形を見つめて―静岡県富士山こどもの国 富士山麓に生まれたユニバーサルデザインの遊び場…荒木康洋
P18-19
文/戸谷英世
(特定非営利活動法人
住宅生産性研究会理事長)


 日本では高齢社会へ向かうスピードが早いため、量的に急増する高齢化需要をビジネスとして先取りしたものや、政治や行政の彌縫策(びほうさく)としてバリアフリー、ユニバーサルデザイン、高齢者配慮性能などが政策としてめじろ押しに出されている。欧米への調査も多数実施されているが、そのほとんどが、「物としての要介護関連の高齢者施設」を、断片的に「つまみ食い」しているだけで、多様な高齢者の生活ニーズ、たとえば高齢者や高齢社会における人間関係、生活のあり方との関係でどのように解決されているか、が明らかにされている例は少ない。
 欧米の調査において、高齢化がゆっくりと高い水準に進行している状況を謙虚に調査せず、調査者の勝手な憶測や私的な価値観によって一方的に高齢者対策を礼賛し、または批判し、非難する例は多い。たとえばアメリカのリタイアメントコミュニティ“サンシティ”に対する調査報告には、
両極端が見られる。高齢者の理想郷という評価とは逆に、偏ったコミュニティで、昼間は人影も少なく、やがて失敗する事業という評価である。サンシティは、1960年代から全米で13もの地区で開発され、多くの需要に支えられている事実をほとんど見ていない。
 北欧の高齢者対策が、自宅でのホームヘルパーのサービスによる政策が重視されているということから、一挙に飛躍して施設介護は間違っているという結論が導き出されている。このような誤った情報が、日本では高齢者問題の専門家を自称する人々から、公的機関の調査報告をとおして広く流布されてきた。
 高齢者のうち要介護者の比率は、前期高齢者(75歳未満)までは若年者とはほとんど変わらない(比率3%)にもかかわらず、高齢者問題は要介護問題かハンディキャップ対策であるかのような誤った議論が一般化している。これは日本では、要介護者の比率自体は低いにもかかわらず、その対応が放置されていて、重大な社会問題となっているためである。


 高齢者の生活は若年者の生活に比べて、そのライフスタイルは多様である。若年者のように就業、就職という場を介して比較的に一定の型のライフスタイルに属するのと違い、高齢者は就業の拘束を離れそれぞれの価値観に合った個性的な生き方を求めているからである。しかし現実の高齢者の生き方は、経済能力、身体機能、子どもなど家族の生活に縛られて、本人が望んでいない生活を甘受させられている場合が多い。特に75歳を超えた後期高齢者になると74歳以前の前期高齢者に比べ、要介護比率は一挙に10倍近くになる。わが国は世界の最長寿国になっているにもかかわらず、要介護高齢者対策が不十分で将来の生活に不安があるため、高齢者が子ども世帯との同居を選択させられているのである。
 高齢者になっても人は常に自らの能力を開発し、
その可能性を追及して自己実現を図り、生きている歓びを感じている。他人から見れば、拙い(つたない)技能や技術、知識であっても、自らの関心、興味でそれらを追究し、新しい技術、技能、知識を習得し実践できるとき、人々は歓びと充実感を持つ。
 これらの訓練や学習に取り組む人々は、よい指導者を得て着実に上達し、一緒に取り組んでいる「同好の士」を得ることによって、
相互に励まされ、より早く上達できる。同好の士は、良き友として、生涯にわたり、技術、技能、知識を追究し合う仲間としてお互いの友情を育てていく。
 高齢者がそれぞれの相違する人生を豊かにするために、社会的に用意されるべき場が、貧しい高齢者対策と高齢者の現在および将来の経済的、社会的な生活不安とのために、事実上奪われているのである。
コンピュータは多くの人々の関心である。専門のインストラクターによる初級から上級レベルまで居住者の能力に合わせた指導を行っている(ワシントン州シアトル“ウエスリーホームズ”)
住戸内はオープンプランニングで計画されお互いができるだけ同じスペースの中で広い空間の「豊かさ」を実感できるようにつくられている(ネバダ州ラスベガス・サンマウンテン “ザ・プラザ”)
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 老人福祉法では、「老人は社会に貢献した者とみなして尊重されなければならない」と書いてあるが、戦争への貢献自体、社会思想により英雄から戦犯までまったく逆の評価になる。社会に対する貢献を尺度にして老人を尊重する見方は間違っており、その功利主義的考え方が日本の高齢者対策の考えを狂わしている。高齢者対策は、児童憲章と同様「老人は老人として尊重されなければならない」ことを原点に置き、社会への貢献にかかわらず、人間として尊重されるべきである。
 サッカー、ラグビー、アメフトなど球技であることは共通しているが、それぞれの特性ごとの面白さによって、別のジャンルのスポーツとして人々が楽しんでいる。それは、人間が社会の中で共存共栄し、生活を享受する場合も同じである。
 人々は住宅地を形成する場合、ライフスタイル、デザインの嗜好、また共通する施設やサービスごとにコミュニティをつくってきた。そこではコミュニティの共通の価値観が尊重され、かつ費用対効果の高い、居住者にとって帰属性の持てる町としてのコミュニティが形成されてきた。
 アメリカでは、子育ての終った人々(エンプティネスターズ)が、同じような関心を追求できる住宅地として開発されたアクティブリタイアメントコミュニティやアダルト(プレリタイアメント)コミュニティは、多様なコンセプトを支持して豊かさを
享受してきている。高齢者のアクティブリビングの考え方は、人々がサファリ(動物園のような動物の博物館や弱肉強食のある草原ではなく、安全でいて活性のあるコミュニティ)での生活の実現を目指している。
 やがて、経済的、肉体的能力が劣化したときには、類似した高齢者が集住することによって、より高いサービスをより効率的で安価に享受できる方法として、欧米では次の4段階のアシステッドリビングという考え方が広く実践されている。
第1段階 身の回りのことが完全に自分でできるが、行動範囲が低下した段階
第2段階 選択的に日常生活の支援を求める段階
第3段階 包括的に日常生活の支援を求める段階
第4段階 要介護生活の段階


 要介護の段階は、終末を迎える準備をする段階である。欧米の養護老人ホーム(ナーシングホーム)は、平均在所期間は1.7年で、日本の場合の平均8年と比べてはるかに短い。これら欧米のナーシングホームでは例外なく、朝になれば居住者は全員起床し車椅子に乗せられ食堂へ、そして高齢者同士が相互に交流できる場所に連れて来られる。日本のような寝たきりにはしない。
 「人間は死すべきもの」と
いわれているとおり、どれだけ延命治療をしても人は必ず死亡するものである。人間が生きている間、どれだけ人間らしく生きることができるかが、高齢者だけではなくすべての人間にとって尊重されるべき課題である。植物人間にしたり、老人をベッドに縛りつけて延命治療を続けることは、人間にとって残酷な仕打ちであるという認識は日本では弱い。延命治療や高額医療さえやれば、高齢者を尊重し、親の孝行になっているとする考えは基本的に誤っている。高齢者のための延命治療に支払われている高額の医療費が、健康保険会社を破綻に追い込んでいることもよく考えてみるとおかしなことである。国民への医療サービスを低下させ、高額医療を受けている高齢者も幸せになっていないからである。
 高齢者・高齢社会への対応も、負担できる経済的・政治的環境の制約を無視することはできない。経済的能力のある者は社会的支援を受けなくても商業ベースで自由な選択ができる。経済的能力の欠如する者へは社会的経済支援を行い、多様な選択の可能性を保障する対応が必要である。サンシティのような高齢者の集約的居住という方法もあれば、アシステッドリビングのように段階ごとに効率よくサービスを受けられるような仕組みづくり、また都市を生活要求に対応させモザイク的に個性豊かな居住環境を整備することにより、高齢者がそれぞれの生活を選択することもできる。多様な生活選択の保障こそ、高齢者政策の中心に置かれるべきである。
キッチンとダイニングは連続し人をもてなしながら台所仕事をするように計画されている(ネバダ州ラスベガス・サンマウンテン“ザ・プラザ”)
公共図書館とタイアップして施設居住者の希望する本が計画的に搬入される。大図書館と同じサービスが受けられる(ワシントン州シアトル“ウエスリーホームズ”)
家族が施設を訪問したとき、団らんを楽しみながら食事ができる豪華な食堂が用意されている(ワシントン州シアトル“ビレッジグリーンリタイアメントキャンバス”)
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