情報誌「ネルシス」 vol.3 2002

P-06[写真構成]足尾銅山――「公害の原点」に再び緑を…石井雅義
P-16[土壌汚染の基礎知識]土壌汚染とはなにか…竹下宗一
P12-15
談話…宇井 純(沖縄大学教授)
戦後の日本が必死の思いで成し遂げた復興がもたらしたものは
世界屈指の経済成長率だったが、同時に急激な工業化にともなう
公害大国への道だった。化学を学んだ技術者として就職した化学工場では
汚水を流す側にいた宇井純氏は、水俣病に直面し、その後の人生を公害研究に費やす。
1970年より15年間、東京大学で市民のための自主講座「公害原論」を主宰。
現在、沖縄大学で水処理をはじめさまざまな沖縄の環境問題に取り組んでいる。
常に弱者の視点に立ち、市民のための環境科学を提唱し続けている宇井教授に
環境行政、環境教育のこれまでと、これからについてお話いただいた。
水を守るための地方条例
年、確かに水俣病やイタイイタイ病のようにたくさんの人が死ぬ急性劇症型の公害はあまり目の前に出なくなったのは事実です。都市河川の水質悪化は1970年をピークに、それから目立って改善されました。1958年の本州製紙江戸川事件をきっかけに水質保全法と工場排水等規制法のいわゆる水質二法と呼ばれる法律ができました。しかしこのふたつの法律は
水質基準だったので実際には一向に規制が進まなかった。60年代に入り美濃部革新都政が成立し、法律の基準よりも厳しい基準を都の公害防止条例でつくったらどうかという問題提起をします。それに対して国の官僚は法律の優位性を主張し、さらに産業界は強く反発しました。憲法によって保障された財産権の侵害であるとし、憲法違反で訴えると主張した。環境を汚すことは既得権だったわけです。
そのときの東京都の公害研究所所長は有名な法律家の戒能通孝先生で、『法廷技術』という教科書を書くほどの大先生です。戒能先生が東京都を代表して裁判に受けてたつという強い姿勢をみせたら相手側は誰も出てこなかった。で、経団連も裁判をあきらめたことによって、わずかに前進していくわけです。  私らもそのころ栃木県で水質審議会の専門部会を65年からやっていたものですから、本当に法律のゆるい規制には苦労していたのです。栃木県は足尾鉱毒事件などという深刻な公害をもっていますからね。そこで、経済企画庁と話をして、足尾の規制は渡良瀬川の上流だけでやってもらい、中流、下流は栃木県の条例でもっときつい基準を決めることにしました。幸いに水質保全法というのは地域指定だったので、その地域指定をできるだけ狭くしてもらうことで水質を守ろうとしました。ともかく栃木県は水源県ですから全国一律の基準なんかではとても水は守れない。だから独自のものを決めるということを苦労してやったわけです。これが60年代後半です。
水質汚濁防止法
70年になって公害国会が開かれます。東京都がそれまで主張していた地方条例が法律に優先するという主張が通る。これによりそれまでの水質保全法や工場排水等規制法が廃止され、新しく水質汚濁防止法が制定された。その中に「国民の生命、財産に関わる問題については地方条例が地域の条件に応じて法律よりも厳しい基準を決める」という一項が加わりました。以前の二法は手続法だったのに対して、水質汚濁防止法は直罰規定であり、基準を決めてそれを超えた場合は処罰される。このことで日本中の工場がいっせいに排水処理をやり出した。各府県も東京都のマネをして法律を上回る基準の条例を決めたためです。
 それまでの水質二法では原則として排水処理はやらなくてよかったんですね。地域を指定し、業種を指定し、その中の特別の機械を指定するという三重に限定されたものについてだけ排水処理をすればよいというザル法だったのです。
見直されるダム
日本中の企業がおおあわてで排水処理をやってみたら、いままでめちゃくちゃに水を無駄使いしていたことがわかった。全部処理したら懐がもたない。そこで工場の中で水の汚れ具合でランクをつけて、あまり汚れていない水については循環利用したりする工夫が始まりました。
 74年をピークに工場排水のための水の需要が減り始め、現在でも減り続け、今では74年の3分の2にまでなっています。それで長良川の河口堰やあちこちのダムが要らなくなってしまった。国土庁は何度か需要予測をやっていますが、予想需要のグラフではいつも右肩上がりで、傾斜がゆるくなることはあってもマイナスになることはない。計画ではやはり川辺川にはダムがいるし、長良川の河口堰は四日市のために必要だというのですが、四日市のほうがいらないと言い出した。そういうことが全国的に起こっています。
Top > P13 > P14 > P15
P13
沖縄の環境問題
私自身はいま沖縄で畜舎排水の処理問題に取り組んでいます。それは沖縄県南部の河川再生事業のひとつですが、沖縄南部の地下水は面的に汚されて使えなくなっています。まず小さな点からでも始めようということでやっていますが、全体の環境を念頭に入れなければそう楽しい仕事ではありません。しかもいろいろな制度を乗り越えて仕事をしなければなりませんから、あっちにもこっちにも腹を立てながら実験をやっている状況です。
 沖縄にはとにかく補助金がつきやすい。しかしその計画が東京の机の上で作られたものだから現状に合っていない。
農業構造改善事業や土地改良事業による農地の拡大では、大規模な面積の森を伐採したために、雨のたびに赤土が海に流出する。作った畑は採算が取れないので放置され、ススキの原にしかならない。何も手を打てずにいるので、依然として赤土は海に流出してサンゴを死滅させています。
 土はすべての生命の基盤ですから、それが雨のたびに流れるということは実は大変なことなんですよ。足尾の山もいっぺんああいうふうに裸にしてしまうと100年経っても回復しないですからね。
沖縄のサンゴ死滅の原因
サンゴがどんどん死んでいく理由が近年いろいろと
わかってきました。20年前、北欧の湖水が酸性雨で全滅したことがあります。酸性雨でPHが5を切ると生物によっては死んでしまうものがいますが、PHだけではここまで全滅はしません。ところがPH5を切ると、粘土鉱物の骨格からアルミニウムイオンが溶け出し、どうやらそれが原因とわかってきた。沖縄の広い範囲にも国頭マージという強酸性の粘土があり、これが海に入るとイオン交換をおこしてPHを下げる。やがてPH5を切るようになり、国頭マージの骨格からアルミニウムイオンが溶け出し、それが毒になってサンゴを死滅させていた。機械的な窒息くらいではあれほどの死滅は考えらませんからね。
Top > P13 > P14 > P15
P14
サンゴの崩壊。1968年(上)と崩壊後(下)の1982年(撮影:吉嶺全二)
国頭村のやんばるの山。1978年(上)と伐採後(下)の1984年(撮影:吉嶺全二)
やんばるの座津武川。晴れた日(上)と赤土で濁る雨の日の川(下)(撮影:吉嶺全二)
 東南アジアの島で起こる土の流出は、地球全体の約7割になるといわれます。そのかなりの部分が、国頭マージと同じラテライトという酸化鉄が主成分の真っ赤な土です。ですから沖縄での表土流出防止の研究は、国際的にも意味があるのです。
 もうひとつの原因はオニヒトデの異常増殖ですね。これは畜舎排水などによるチッソやリン酸などの肥料分が沿岸部に増えて、富栄養化現象が起こることでヒトデが増える。サンゴはその両方からやられている。このチッソやリン酸をなんとか発生源で取り除くことができないかということで、簡単なオキシデーションディッチという池みたいなものをつくって、処理の実験をやっています。
水処理技術との出会い
オキシデーションディッチという水処理技術とは長い付き合いがあります。もう30年以上昔の話です。そのころヨーロッパに1年あまり留学して、ヨーロッパの公害について調べた頃です。そのときにオキシデーションディッチを発明したオランダの研究者を訪ねました。デルフトの静かな農村地域にある国立衛生工学研究所に彼はいました。パスフィーア教授は私に会うなり、2日以上ここに滞在したいといった初めての日本人だといってびっくりしていました。日本人はせっかちだというイメージを持っていた教授にとって、4ヶ月滞在するといった私はめずらしかったのでしょう。
その頃日本にもオキシデーションディッチがぼちぼち作られてはいましたが、どうももうひとつ納得がいかなかった私は、直接オランダに行って確かめてみようと思ったのです。
 運動場のトラックのような溝に汚水が流れ、そこにブラシが回っている。そのブラシを止めて、その間に汚物が沈殿しうわずみは流しまた新しい汚水を入れる。これを1日4回やるという簡単なものです。1回ごとに止めて流すバッチシステムです。毎日サンプルをとって計ると1週間経つと確かに有機物は取れている。アンモニアがだんだん減ってくる。4週間目になるとほとんどチッソがとれているんですね。もう少し見ていると、活性汚泥がゆっくり増えてくる。しかし4ヶ月間一度も泥を抜かないで運転できるのです。このシステムでは、臭いもなく、蓄積する活性汚泥の量も少なくて済むというのが特徴でした。水処理というのは、水と泥を分離した後の泥の始末のほうに金がかかります。昔は肥料にしていたのですが、今はそんなことで間に合う量ではないので、薬品をかけて搾って、場合によっては石油をかけて燃やしたりしているのです。
宇井教授設計のオキシデーションディッチ(大里村字大城金城農園内)
Top > P13 > P14 > P15
P15
みすみす殺した
技術の特性
そしてついに4ヵ月後、いよいよ帰国というときにパスフィーア教授が私に話したことは、この技術は沈殿池をつくり連続式にしてしまうとシステムの特性が死んでしまうので、絶対に連続式にはしないように。例えばバッチシステムでやれば臭わないものが連続でやれば臭う。沈殿池も臭うから蓋をするなどのよけいな金がかかるようになる、と。もうひとつ、どんなに下水の濃度が薄くても滞留時間が2日を切ることのないように、ということでした。
 ところがその後の日本でのオキシデーションディッチの作られ方をみると、沈殿池をつけ、返送ポンプをつけ、連続型にしている。オリジナルではあまりに簡単な仕組みなので事業として成立しないからということ。ところがそのオリジナルではない方のシステムが国内の標準仕様となり、補助金がつき、日本中でかなりの数がつくられている。こういう補助金制度はゆがめられた技術を固定してしまう危険性がある。
 石垣島の川平という観光地につくった連続式のオキシデーションディッチは500人容量のところに7億円を
かけた。しかしバッチシステムなら1千万円程度でできます。 73年に大分県の臼杵で、あるセメント企業の工場誘致をめぐる紛争があったときに、反対派のリーダーの中にお味噌屋さんがいました。公害反対運動をしていながら公害の元凶だったりすると辛いわけです。そこでこの味噌屋さんは自分の工場の排水をまずきちんと処理しようと、ある企業に排水処理施設建設の見積もりを取ったら相当な額になった。田舎の味噌屋にそんなお金はありません。どうやったら一番安くできるかを相談され、10分の1程度でできるバッチシステムをすすめました。これが、私が設計した第1号機です。
 いま一人当たりの下水道投資額は150万を超えています。4人家族だと600万円かかる。そのときに合併浄化槽だと100万くらいでできる。それをしゃにむに流域下水道計画をつくってやっている。第8次が今年で終わって来年から第9次が始まる。またしても国民の税金を浪費する事業をやるでしょう。だから第9次の計画が出てきたら私なりに厳しく見ていきたいと思っているのです。
 みなさんが頼りにしている技術というのは、そういう疑わしいものだと言わざるを得ない。
国策でいっせいに
つくられた環境学科
70年代、日本中で公害が騒がれた時期に、当時の総理大臣田中角栄が、大学の中に公害の専門学科をつくれば公害は解決するだろうということで、全国の国立大学の中に環境学科がいっせいにつくられました。
 そのころ私は新潟の水俣病の裁判をやっていたのですが、そのときに企業側についた科学者が日本で最初にできた公害という講座の担当教授になった。公害を出す側の研究が大学なんだということがそのときわかったのです。新しい学科の教授陣には農学部の造園の先生や農業土木の先生がきたり、工学部の化学の先生がきたりしてましたから、結局親元の学会で発表しないと評価されないというおかしな構造でした。そんなことで私は夜間空いている東大の教室を使って公害の自主講座を始めました。直接市民に訴えてみようと思ったのです。東大の中にはいろいろケチをつける人もいましたが、これが15年続き、実行委員会の努力もあって「公害原論」としてまとめられました。
海外に10年遅れた
環境教育
私が68年ころにヨーロッパを歩き、70年代にアメリカを歩いて感じたことは、日本の公害は世界の最先端を行っていて、5〜10年は事態が先行しているであろうということです。海外の理論が使えないから日本独自で答えを出すしかない、というのが結論だった。ところが90年代になって蓋を開けてみると、日本は環境研究で10年遅れてしまっていた。そこでまたあわてて学科をつくり研究者が増えました。外国での環境研究がある程度見えてきた2回目の環境科学学科開設時期には、1回目のような親元の出先のようなことではなくなりました。特に若い人たちが、これまでのやり方に疑問をもつようになったのです。
 東大では今後「環境学環」という学部より大きいグループをつくろうという動きが出ていますが、大学院生やオーバードクターの人たちから反発も出ている。60〜70年代に東京大学がやったことの客観的な評価と反省がなくて、どうして90年代から出てきた地球環境問題に東京大学は取り組めるのか、と若い人たちは言いはじめている。それはもっともなことです。まず日本は、成功も失敗も含めて、公害と環境に対しての経験を整理して、世界に伝えていく必要があります。
公害研究を支えた
アメリカの援助
昨日も環境研究をやっている若い人たちと話をしたところです。おはずかしい話ですが、水俣病もイタイイタイ病も日本国内で誰も相手にしなかった時期があるのです。熊本大学の水俣病研究班は厚生省から研究費を打ち切られました。1960年からしばらくです。イタイイタイ病の中心人物だった萩野昇先生という開業医も、学会で発表する度に袋叩きにあったりした。で、そのどっちもアメリカの公衆衛生院(NIH:national institute of health)の研究費で生き延びたのです。あんな深刻な公害病の因果関係がアメリカの研究費によって解かれたわけです。NIHが1件の研究に対して援助する額は3万ドル(当時の日本円で1千万円程度)。3万ドルなんてアメリカにとってはたいした額でなかったでしょう。それを世界中の、最先端の難病奇病の研究にばら撒いていれば、まじめな報告がNIHに集まるわけです。
  日本でもそれをやったらいいと学術会議の吉川弘之議長に手紙を書きました。24兆円をこれから5年間で使うといっているので、その半分を社会科学の分野に出して、生産・分配・廃棄とうまく循環させる社会の仕組みを考えてはどうかと。これまではもうかる技術に集中しすぎた。
もう一度根本の目的に立ち返る必要があります。
これからの日本
73年のE.F.シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』に代表されるように、肥大化した科学技術に対する批判と代案はいくつも出されています。今まで近代技術が巨大になりエネルギー集約型、資本集約型で労働は節約型だというのでずっとやってきたわけですが、例えばインドには資本がない、エネルギーもない、労働力だけは無限にある。だから逆のものが必要なんだということです。
 日本もここで1年かけて、計画を洗いなおした方が得策ではないかと思います。確かに戦後は欧米のマネをするのが精一杯であったけれども、今考えてみるとばかばかしかったなと。マネをしないで自分の持っている力をじっくり見抜くことが必要だった。
 これからは、これまでの産業化学が生み出したマイナスの面を評価し埋めてゆくこと。それは生存と生活が生産よりも重要な役割を占めるときがくるからです。そのときにはむしろ生存と生活のための科学の方が大切になると確信しています。
Top > P13 > P14 > P15