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チェルノブイリの原発事故は今から16年前の1986年4月26日夕方に起こりました。空がオレンジ色に染まり、埃は舞い上がって、それから小雨が降ったと映画の中で主人公のアレクセイは語っています。私がベラルーシ共和国に初めて行ったのは1991年でした。汚染された村に残って生活している村人たちの姿を見て、その風景の汚染地区とは思えない美しさと、彼らのたくましさに魅せられました。これは「いのちの話」なんだろうなと感じたのです。そこから「核とはなにか」を描けたらと思いました。刺激的な映像でストレートに訴える表現方法もがありますが、僕自身は映像というのは、観てくれる人のイマジネーションの世界をいかに広げるかだと思っているので、いのちの話にしよう、そこから核を反対しようと。
ブジシチェ村も何百年と続いている人間の営みを感じさせる場所でした。僕らがなくしてしまった大切なものがそこにあるという懐かしさ。以前こんなことがありました。前作の『ナージャの村』を東京で上映した後にアンケートを書いてもらったのですが、小学校5年生の女の子が「とても懐かしい風景でした」と書いてあった。不思議でしょう。きっと彼女のDNAの中に記憶されている何かがあるんでしょうね。赤ん坊が水を触ると喜ぶように、とても自然なものとして。 |
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僕らはそういうものを信じていいのではないか、それを手がかりに、何かを伝えていくことができるんじゃないかと思ったのです。
 アレクセイと初めて会ったのは1996年の2月です。以来、行く度に会っていろんな話を聞き、書きとめてきました。その話を頭におきながら撮影を始めたのです。
映画ではアレクセイのナレーションで村の生活が語られています。彼の話し方も言葉もとても優しい。彼と話していくうちに、僕はこのアレクセイの語りを映画のなかでみんなに聞かせたいと思いました。僕は撮影中、彼にどうして村を出ないのかと繰り返し訊ねました。彼は「両親の力になりたかった」と話し、「泉の水が僕の体を流れているんだ。運命からも自分からも逃れられない。だから僕はここに残った」という言葉をくれました。彼が語ることによって次の世代につながっていくものがあると思いました。
 人々が村に残った理由は、やっぱり自分の故郷だからだと思います。安全じゃないからそこを離れるというものではない。草一本、木一本に思い出がある。それが生き物としての人間の棲家というものだと思います。
若いアレクセイが「生きることは食べることだ」と語る。
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ともかくこの村では1年間食べるために春から秋にかけて一生懸命に働いているのです。村人たちの手はものすごく立派で、手は道具なのだと気付かせてくれました。おばあさんと握手する自分の手がフニャフニャに思えて恥ずかしかった。そしてそこには「生きるための技術」であふれていました。
 僕は1940年生まれですから、敗戦のときは5歳でした。僕が育った時代は高度成長真っ只中で、ものがどんどん増えていった時代です。僕も物質文化にものすごくあこがれました。それはまさにアメリカの物質文化で、父親のか細い体つきに比べてGIの逞しい肉体は豊かさの象徴でした。
わが家にもテレビが入ってきた時にはすごくうれしかったですね。だけど、だんだんその豊かさに疑問が出てきた。 僕が最初に写真を取り出したのが筑豊の炭鉱だった。ちょうど石油が石炭にとって代わる時代でした。それがたったの35年で今度はあっという間に原子力エネルギーに変わろうとしている。
僕は基本的に核は人間がコントロールできるものではないと考えています。人間は機械ではないのだから事故があってもおかしくない。ミスがあってあたりまえの人間に、核をまかせるなんておかしいですよ。 |
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