情報誌「ネルシス」 vol.4 2003

P-26 [体験しよう]人と自然との共生を試みるエコツーリズム
P-36[シリーズ]自然浴環境 六本木ヒルズのランドスケープデザイン
P30-35

町民が採れたての作物を持ち寄る朝市「しゃん山」
大型フェリーも来航する菱浦港。船着場に立つ和風の建物がキンニャモニャセンターで、第10回「しまね景観賞」を受賞した(設計:アズテック建築設計研究室)。右奥がマリンポートホテル海士

海士町は、島根半島の沖合い約60kmの日本海に浮かぶ隠岐諸島のなかの一つ、中ノ島にある。
隠岐諸島は大小180余りの島からなっており、そのうち人が住んでいるのはわずか4島。
島後の1島と、島前の3島で、島前は1島1町村で形成されている。
なかでも中ノ島は、1221年の承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が流され、終生暮らした島として有名だ。
海に囲まれた豊かな自然環境を生かした漁業、農業、林業が町を支えている。
特に近年は名産の岩ガキ『春香』の味が東京築地で評判となり、
海士町の名を全国に知らしめるほどの産業に成長しつつある。
その裏には、役場の産業課や観光課の熱血漢たちと、
岩ガキ生産者三人衆を中心とした組合のたゆまぬ努力があった。
そして現在進行中という「大物流システムに打って出る秘策」とは・・・。

吹き抜けで広々としている旅客船待合所。共にキンニャモニャセンター内
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35 
P31
港にできた活動拠点
第3セクター経営のホテルと
「キンニャモニャセンター」


町村合併の議論が激しさを増す昨今、地域の自立を達成しようと奮闘する町がある。島根県隠岐郡海士町。人口約2600人、面積33. 42km2の小さな町だ。
 島根半島の境港から高速旅客船で約2時間、中ノ島の菱浦港に到着する。大型のフェリーも運航しており、夏には大勢の観光客を迎え、島の玄関口となる港である。その岸壁に沿って立っている木造の新しい建物が、この元気な島の活動拠点「承久海道キンニャモニャセンター」だ。スギを中心とする隠岐島の木材をふんだんに使ったぬくもりのあるこの建物は、2002年3月に完成した。1994年にオープンした
マリンポートホテル海士に次ぐ第3セクター経営の大きな建物だ。集成構造材が支える吹き抜けの大空間は旅客船の待合所となっており、1階には町の観光案内窓口を兼ねた海士町観光協会事務局、そして地元産品の販売所や売店、2階には、レストラン、会議室、コミュニケーションルームなどがあり、旅人を温かく迎えるだけでなく、島の人々の交流拠点として親しまれている。
 ところで「承久海道キンニャモニャセンター」という不思議な名称はどこからきたのだろう。「キンニャモニャ」という言葉の意味は不明だが、島民に親しまれている地元の民謡「キンニャモニャ節」からきているという。そこに、かつてこの島に流された後鳥羽上皇が敗れた「承久の乱」にちなんで「承久海道」と
付いている。ちなみに、島の生き残りをかけた一大プロジェクト、 第三次海士町総合振興計画の名称も「キンニャモニャの変」となっている。

採れたてが
なぜ食べられない?
「地産地消」への挑戦


キンニャモニャセンターは第3セクターが運営している。今回われわれを案内してくれた海士町役場産業課課長の奥田和司さんと海士町観光協会事務局長の波多紀昭さんが、センター建設の経緯と町の取り組みについて話してくれた。まずは、奥田さんから意外な話が飛び出した。四方を海に囲まれたこの島で、あろうことか、島民が新鮮な魚を食べられていないというのだ。
 「この島では、採った魚や農産物を一度本土に出して、あくる日に戻ってきたものを買って食べています。ばかげた話ですが、高い輸送コストを払って逆輸入するのと同じです。そこで、島が独自に流通システムを持てばいいのではないか、ということになりました」
 地元で採れたものを地元で食べよう、という農林水産省の「地産地消」の掛け声に、町が本気で取り組もうと動きだした。フェリーの大型化に伴い手狭になった港の再整備が行われることになった。せっかく人が集まるのだから、そこを島の物流拠点にしてはどうかとセンター建設に着手することになる。厳しい財政のなか、町の生き残りをかけた戦いが始まった。
 「はっきりわかっている
ことは、町の財政収入が2年後には、とんでもなく落ち込んでしまうということです。もともと自主財源に乏しいうえに、頼みの地方交付税が徐々に削減され、公共投資も無くなります。何が何でも産業を興さなければ生き残っていけない。ここ3年が勝負です」
 危機感が彼らを駆り立てた。そしてこの「地産地消」への取り組みが、やがて大物流機構への挑戦となって展開していく。

町が先頭になって
土産物を開発
島じゃ常識の「さざえカレー」


“他人まかせの流通じゃない、自分たちが管理できる物流ルートをつくろうじゃないか!”そうして取り掛かったのが、
島の特産品を生かした土産物開発だった。
 島では採れたてのさざえをカレーに入れてよく食べる。カレーが少し緑色になるが、海草からのミネラルがたっぷり入り、肝の苦味が一味違ったうま味を出す。これを全国へ向けて商品化しようと、観光課の係長・青山富寿生さんが中心になって農協と共にレトルトパックの「さざえカレー」を開発。“島じゃ常識”のキャッチフレーズを掲げての登場だ。キンニャモニャセンターの売店で土産用に販売されているが、2階のレストランではパックする前の段階で食べられる。島外では松江市内の厳選した品を扱うこだわりのスーパーと、米子空港と出雲空港で売っている。
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35 
P32
キンニャモニャセンター2階のレストラン「船渡来流亭(せんとらるてい)」(上)のオリジナルメニュー「さざえカレー」(下左)と「シオカラボナーラ」(下右)。さざえカレーのレトルトパックはお土産に最適
 「横浜のカレー博物館にも置かせてもらっていますが、レアモノ的な意味を持たせ、今のところは特定の流通にしか乗せていません。ニーズがあれば大量生産します」
 今年で5年目となるこのさざえカレー、現在、年間生産量は4万個で、価格は1箱500円。ふるさと産品の生産量としては異例の多さだ。
 「まだまだやれることがある、ということを、この商品づくりで経験しました」と青山さん。さざえカレーは島のイメージを売る先頭バッターとなった。

生産、加工、流通、
販売を追って
岩ガキ市場をつかめ!


“島で採れる産物にもっと価値をつけて売ろう!”
そんなことから、特産品をつくることで町の知名度を上げようと努力が始まる。
 「これまで島の生産者は、自分たちのつくったものを誰かに評価してもらったことはありません。ただ採ったものを船に乗せて出荷するだけ。それなら自分たちが出荷した魚がどう流れているかを見届けよう、と言いだす者が出てきた。前日のうちに本土の境港に渡り、翌日市場に入ってくる様子を見た。しかし、自分たちの産品がどこへ流れていくのか全然わからなかったのです。特に境港の市場は仲買専門ですから、そこからどこに流通され、最終的にいくらで売られているかわかりませんでした」と奥田さんは語る。
 ではどうしたらいいのか、その突破口が岩ガキだった。流通する先を見てみようと
岩ガキの生産者三人衆が、大阪や東京の市場に実地研修に行った。市場には料亭やホテルなど最終的に買ってくれるユーザーの声が集まっている。それをキャッチするには市場の人とコミュニケーションをとる必要がある。“自分の商品”という考えをしっかり持たないと続かないぞ、彼らはそんな思いで帰途についた。
 生産の主役「海士いわがき生産協業組合」は、まったく個性の違う三人衆だ。最年長者が54歳で、島で1、2を争うイカ釣りの名人。ほかの2人が41歳で、一人はUターン組の漁師。もう一人はIターンで、ダイビングサービスをしている。彼らは現状維持だけの将来に対する不安から、新たに岩ガキの養殖に取り組んだ3人だった。
 不況をよそに、大阪、東京など大都市圏を中心に岩ガキの需要は年々増えている。市場では銚子や富山の天然物が圧倒的な量で出回っている。そのなかで果たして海士の養殖岩ガキが勝負できるか。マーケット需要をよく知る外部の意見は厳しいものばかりだった。が、奥田さんと三人衆は勝負に出た。
 「さざえカレーがレトルトだったので、海士の岩ガキ『春香』は絶対に生で売りたい。海士の海域環境の良さを表現するには、これをなんとかものにしたいと思ったのです。隠岐の海域は、大腸菌数が厚生労働省の基準を大きく下回る、全国に誇れる清浄海域です。二枚貝の味わいや外見の違いは、品種もさることながら、
塩分濃度やプランクトンの量など海域の環境にかなり影響されるといわれます。入り江の奥で育ったものはトロッとしてこくがあるのに対し、外海のものはすっきりした味わいになる。『春香』は粒が大きくふっくらしていて、さわやかな甘味がある。この海士ならではの上質な味を評価してもらえれば、必ずチャンスがあると読んだ。どうせ離島から本土に出すのなら、あえて激戦区といわれる首都圏で勝負してみようと」
 天然の岩ガキは潜り漁。漁が7月に集中し、製品管理が手薄になる。 その点、養殖の場合は生育状況がチェックできるので食べごろに収穫でき、少しでも味が落ちると、そこで収穫をやめ、
品質を保つことができる。また通常、岩ガキ漁は個人が漁協や契約先に出荷するので衛生面での事故が多いという。これを防ぐために海士では、海から揚げた後、殻についた海藻などをグラインダーで削り取って、紫外線滅菌海水による浄化を行い、品質や規格を統一して出荷できる独自のラインを完成させていた。
 「2週間前に食品通販で有名な企業のバイヤーの方が来られて、この出荷ラインを見て驚いていました。おそらく日本全国を探してもこのレベルのものはないでしょう。これをつくるのに1年以上かかりましたが、その苦労した分は必ず取り戻しますよ」
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35
P33

隠岐の清浄海域で養殖された岩ガキ「春香」は、大粒でさわやかな甘味があると東京の築地でも評判に。食べごろは3月〜6月上旬(写真提供:海士町役場観光課)

【写真左】岩ガキを洗浄するライン 【写真中】岩ガキの生産者三人衆。上から、漁師の大脇安則さん(海士いわがき生産協業組合長)、イカ釣り名人の山下照夫さん、ダイビングサービス経営の鈴木和弘さん 【写真右】岩ガキの養殖場(保々見)
 いつの間にか海士いわがき生産協業組合の組合員は20人に増えていた。出荷量は、2002年が6万1000個、2003年が11万個、2006年には30万個を目標としている。
 「今年も値段が上がりました。島内での販売価格をいじるつもりはありませんが、築地での取引価格は “いったい誰が食べるのだろう”というような信じられない価格がつき始めています。海士の岩ガキは品質が勝負ですから、そのブランド性を保つために、たとえ1個でも質が落ちると出荷を止めます。最初は水槽に冷却装置を付けて保管し、出荷期間を延ばしていたのですが、ばかばかしくなってやめました。カキには旬があるんだから、それでいいじゃないかと
割り切っています」と奥田さん。
 海士の岩ガキ「春香」はその味と品質で海士町の名を全国に知らしめるほどの大きな名産品になりつつある。そして今、海中には3年の歳月をかけての熟成をじっと待つ岩ガキたちが静かに眠っている。

もう一つの秘策
町の達人掘り起こし


さざえカレー、岩ガキの次に町が取り組んでいるのが塩の製造だ。いきさつは4年前。子ども会のキャンプで初めて塩を炊き、その塩のおいしさに皆驚いた。昨年の老人会の集まりで、自分たちも町のために何かやらないかと、小さな塩小屋を建て、そこで塩づくリを
始めた人たちがいた。名付けて塩宴会。塩小屋の番人は、大阪から故郷の海士に帰ってきて7年目になる堀尾福一さん74歳。塩宴会6人の代表を務める塩の達人である。堀尾さんは終戦後の物資の不足するなか、ドラム缶で釜をつくり海岸で塩を炊いた経験があった。おいしさを追求して何度もやり方を変えて挑戦。ある時、雪で薪が湿っていて強火にならない状態で長時間かけて炊いたら、偶然にもこれまで以上においしい塩ができた。それが東京の料理研究家の目に留まる。
 「これならいける!という塩がいよいよできそうなんです」。私たちを塩小屋へ案内してくれた奥田さんが話を続ける。
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35
P34
 「漬物や、もろ味噌もこの塩でつくっていますが、味が全然違う。ほかのものが生きてくる、塩はそういう商品です。この島でできる野菜はまた格別で、海のミネラルがたっぷり取り込まれている。その草を食べる牛の肉だって当然おいしい。実際、畑に塩をまくのがはやっているそうです。島で採れる農産物にこの塩を組み合わせた食品の一大加工業をやってみたいのです。
 さざえカレーで2000万円、岩ガキで1億円。それもなかなか大変なことですが、この加工業では、公共投資のかわりとなる20億〜30億円が見えてくるような大きな産業にしてみたいものです」
 現在、それに向けて、行政と町民が協働して何ができるかの検討が始まった。生産・加工・流通・販売まで確実にできるという成果を出すことは、今ある民間の業者への刺激にもなると町は考えている。

海士は日本の縮図
島の元気は日本の元気!


「従来の行政という枠を越えて、事業感覚を持った商社的機能を発揮していかないと地域づくりの成果が出にくい時代です。

塩の達人・堀尾福一さんが釜炊きした塩は、ミネラルが豊富でとてもおいしい。海士町の未来を担う食品加工業の要となるのがこの「海士の塩」
公務員のやる気や能力が問われ、歴然と格差が出てくるでしょう。 住民サービスや良質の福祉は、経済的なバックアップがないと無理。 期限付きの町村合併に伴う財政支援があるが、 そんなものに頼ってもだめ。地域が自立できる地場産業を待たないと、いずれ厳しくなる。 どういう選択をするか、緊急の課題です」と語るのは、昨年までマリンポートホテルの支配人を務めた波多さんだ。
 そして今、キンニャモニャセンターは毎朝、町の人でにぎわっている。採れたての野菜や海産物を持ってくる人、それを買う人。2階のレストランでは島の産物を使った新メニューが続々登場している。こじょうゆ味噌を使った「こじょチーズライス」、イカの塩辛を使ったパスタ「シオカラボナーラ」。みんな町役場に勤める若手の発案だ。
そして、センターの売上高は当初の予測をはるかに超える実績を上げているという。
 「とにかくこの海士でどこまでやれるか徹底的にやってみたいんです。ほかの島が水産業だけなのに、海士にはしっかり農業があり、農的気質がある。一人一品ずつ考えて、それを集めて物流をつくることも夢ではない。とにかく、われわれ世代が道をつくらないと後継者だっていなくなりますよ。いままで皆眠っていたけど、ようやく起きそうな雰囲気がしてるんです」と奥田さん。
 海士町が一丸となって取り組む生き残り作戦の、これからの動きが楽しみだ。
 島であることの利点を生かすまちおこし、それはいずれ島国日本の元気につながるはずだ。離島の知恵、日本の底力がいま試されている。

大阪在住で海士出身の画家・杵築青波(きずきせいは)さんは、過疎化していく故郷に危機感を抱き、まちおこしの気持ちから、年の半分を海士で過ごして島の美しい風景を描いている



海士町に関する詳しい情報は
海士町ホームページへ
アクセスください。
http://www.oki-ama.ne.jp/
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35
P35

【写真上】松食い虫で荒れた土地に牧草を植え、牛の放牧を始めた【写真下左】日本名水百選になった「天川の水」の湧水池(保々見)【写真下右上】海の底が透けて見える明屋海岸(あきやかいがん)【写真下右下】後鳥羽上皇御火葬塚(中里)
海士町の熱血漢たち。
写真上から産業課の奥田さん、観光協会の波多さん、観光課の青山さん

海士町 山内道雄町長
農・漁の再生

2002年にオープンしたキンニャモニャセンターを拠点に、町政の経営指針「自立、挑戦、交流」を実践に移しています。「地産地消」の掛け声に、島の産物を納める人が100人を超えたようです。地元の店やほかの島にも海士で採れたものを卸していくよう進めています。島前3島のうち米が採れるのは海士だけ。米はこしひかりで、すごくおいしい。島は水もいいので、農業再生に重点を置く政策を考えています。また漁業では、漁獲は減っていますが、岩ガキの生産組合を筆頭に研修などで意識変革しており、塩を中心とした食品加工業を模索するなど、自立への可能性はあると確信しています。

役場変革への挑戦


職員の意識を変えるために、まず対話をすることから始めました。町長室のドアをガラスに替え、開けっ放しにして、通りすがりの職員を呼び止めては、町長室に引き込んで話をしています。現在役場の職員は80名で平均年齢が42歳と若い。

早期退職がぼちぼち出てきたのは、がんばらないと居られないような雰囲気になったからです。年功序列を壊し、適材適所を実行したのは間違いじゃなかった。責任が大きいだけに本当にやりがいのある仕事だと思っています。

外との交流

毎年8月に行われ1000以上の人が踊るキンニャモニャ祭りが、来年は30万人の観客が集まる東京・上野の「うえの夏まつりパレード」に出る予定です。また先ごろ、総務省の「まちづくり」のソフト事業で2000万円の予算がつきました。若い職員のアイデアで、地図上の場所をクリックするとその場所に関する情報が出てくるという地理情報システムを使ったソフトです。海士に関心を持っていただくにはとても便利なものになるでしょう。
 また、後鳥羽上皇にちなんで、毎年、短歌、俳句の先生方をお呼びするツアーを行っています。今後もこうした文化交流に力を入れていきたいと思っています。


プロフィール
長年NTTに勤務し、第3セクター役員、町議長などを経て、平成14年、前海士町助役の候補を大差で破って町長に当選。お役所的年功序列に抗して能力のある若手職員を起用するなど、公約に掲げた行政の体質変革を実行する。64歳。
Top > P31 > P32 > P33 > P34 > P35