情報誌「ネルシス」 vol.5 2004

P-01 ストーリー・オブ・ベルリン〜都市の博覧会〜
P-10[特集]まちに息づくアート 21世紀のランドスケープ・エコロジー 街とアートの半世紀…竹田直樹 2 アートプロジェクトのパラダイム
P02-09
都市の再開発では、印象的なアートがまちを彩っています。
六本木ヒルズの広場に設置された蜘蛛の彫刻は、
その大きさとグロテスクな形でシンボリックな空間をつくりだしています。
また最近では、田んぼや畑、民家の中にアートを持ち込み、
都会との交流を生み出した村があります。
上野公園の西郷像のように、何かを記念してつくられた彫刻から、
人々をつなぐコミュニケーションとしての役割に主眼が置かれた
アートプロジェクトへと移り変わっているパブリックアートの
半世紀を概観しながら、これからの「まちとアート」の
さまざまな可能性をさぐってみます。
ナム・ジュン・パイク
「20世紀のための32台の車」
ミュンスター野外彫刻展
1997/Photos by Taku Shiobara

「ミュンスター野外彫刻展」は
80年代末に日本でも紹介され、
日本のアートプロジェクトの展開に
多大な影響を及ぼした
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街とアートの関係史を日本の戦後に絞って概観してみたい。
まさに今、半世紀を超えるその歴史が転換しようとしている。
私たちは新しいパラダイム(系譜)の幕開けにいるのである。
文・写真……竹田直樹
日本の戦後の街とアートの関係史をひもとくとき、最初に、自治体が公共事業のなかでつくった彫刻設置事業のパラダイムが横たわる。
プロローグ:男女の裸像・
母子像の登場
終戦直後、街には、戦中に戦意高揚を図るために銅鉄供出の対象から除外され残存した軍人系の銅像が、いたるところにそびえ立っていた。フセイン像がそうであったように、これらのモニュメントは、GHQの指示に従い撤去、移設されていく。このお決まりの敗戦処理作業により、一時的に野外彫刻がほとんど消滅し、街には白いキャンバスのような状況が広がった。
 そんななか、1950年代に入ると企業や市民団体が主体となり、世界に類例のない新しいタイプの野外彫刻の設置が始まった。「平和」「自由」「建設」などという
戦後の新しいイデオロギーやスローガンを男女の裸体により表現する彫刻である(写真1、2)。匿名の平凡な隣人がモチーフとなり、その健康的な肉体がリアルに描かれる。イスラム教はいうまでもなく、キリスト教や儒教文化圏でも、この種の作品を公共的な場所に設置するのは抵抗があるに違いない。アカデミズムへの憧れの基底には、仏教系民間信仰が横たわるのではなかろうか。かつて安寧を祈願して村の入り口に設置された双体道祖神の示す、明るく濃厚な性的表現が思い出されるところである。
 このタイプの設置事業は、60年代に入ると終息するが、「平和」を表現する母子像が定着し、全国に波及する。母子というモチーフはキリスト教美術にも見られる
写真1[左]●菊池一雄:平和の記念像,1950,千代田区三宅坂公園(最高裁判所前)/株式会社電通によって設置され、当時は大変な話題になったという。菊池は50年代に最も活躍した彫刻家の一人である。1958年には、広島の平和記念公園に「原爆の子の像」を制作した 写真2[右]●分部順治:建設と平和像,1953,前橋市前橋駅前/戦災復興事業により整備された駅前広場に民間が主体となって設置したもの
ものの、日本の母子像は、かつての慈母観音像のように母親も裸体であることが多い。
 いずれにしても、50年代の野外彫刻は、60年代以降の設置事業とは異なり、モニュメントとして認識しやすいものであった。一方で、裸像が多いという60年代以降の特徴に影響を及ぼすことになる。
「彫刻のある街づくり」の
始まり
60年代に入ると、美術作品としての彫刻を設置する新しいタイプの事業が始まり、彫刻設置事業のパラダイムの幕開けとなる。最初に着手したのは山口県宇部市で、日本の「彫刻のある街づくり」事業の第一号となった。公園課が担当していた、花を市街地に植栽する「花いっぱい運動」で集めた市民からの寄付金のわずかな残金で、58年に宇部新川駅前広場に「ゆあみする女」という模造品のホワイトセメント像を設置したところ、市民の間で大変な評判となる。この思わぬ出来事をきっかけとして、61年から「宇部を彫刻で飾る事業」が始まった。設置事業の枠組みをつくったのは、美術評論家の土方定一(ひじかたていいち:1904−80)である。アメリカ合衆国やフランスでも、このころから彫刻設置事業が始まるが、日本のものは
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写真3●向井良吉:蟻の城,1962,宇部市常盤公園/彫刻設置事業の開始を記念する作品としてとらえてよいものだが、向井はこの作品について「私は作る側が公共性などを考えたら彫刻などはできない」と発言している。「社会から自律した」作品を目指したのである
写真4●桜井祐一:あるポーズ,1965,宇部市常盤公園/「平和」「自由」「建設」など当時のイデオロギーやスローガンと無関係な美術作品としての野外彫刻の初期のもの
それらとは無関係であり、少なくとも当初はそれらを模倣するものではなく、オリジナリティに富むものだった。
 宇部市の事業は、2年ごとに野外彫刻展を開催して入賞作品を買い取り設置するという形態をとり、設置の対象となる作品は、以前の大部分の彫刻とは異なり、社会的価値観やイデオロギーなどとは無関係なテーマを持つ純粋な美術作品であった。抽象作品が多く、これまでの人物像とは大きく異なってはいたが、具体的な設置場所を踏まえて制作された作品ではなかった。
 ここで、設置事業に、その名称からも明らかなように、都市環境を修景し、美観に優れたものとする目的、つまり景観形成にかかわる目的が生じたのである。この背景には、当時の宇部市は石炭産業による公害や無秩序な市街地の形成が全国的に有名で、環境改善に対する要求が強かったことがある(写真3、4)。
 神戸市は、68年から宇部市と
ビエンナーレ形式により「現代日本彫刻展」を須磨離宮公園で開催するようになる。これも宇部市と同じ目的と内容を持つ事業であった。
 70年代初頭は、公害問題をきっかけとして都市環境に対する関心が高まった時期である。都市を潤いのある快適な環境に整備しようとする機運が生じ、緑化が盛んに進められ、この過程で緑や花と同列のものとして彫刻がとらえられたのである。「彫刻=緑・花」というような認識が形成される。
 一方、アーティストの側から見れば、作品発表の機会が乏しかった当時において、宇部市と神戸市の野外彫刻展は貴重な作品発表の場となった。設置事業は都市環境整備を目的として推進されているにもかかわらず、アーティストは野外彫刻展における「社会から自律した」作品の発表を目的としていたわけで、両者の思惑には大きなズレが内在していた。当時のアーティストや美術関係者の多くは、米ソ冷戦構造のなか、プライベートな表現や抽象表現を禁止する
社会主義リアリズムとの対立関係を踏まえ、作品の社会的な自律性が何より大切だと信じて疑わなかったのである。でも、これは裏を返せば、アーティストが社会から自律した作品を制作することにより、社会性を獲得できたということでもあった。ではあるが、ともかく風で動く彫刻や大規模な抽象作品など、野外に設置されることを想定しなければ制作されなかったであろう作品が登場したことは、設置事業が野外彫刻のみならず彫刻自体の発展に大きく貢献したことを示している。
彫刻設置事業の拡大
70年代は、「彫刻のある街づくり」事業がゆるやかに拡大する期間である。60年代は、都市環境整備に対する目的が重視されていたわけだが、ここで、新たな目的が付け加わることになる。
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写真5[左]●佐藤忠良:緑の風,1978,仙台市台原森林公園/仙台市は、設置場所を踏まえた作品制作をアーティストに依頼する方法を採用した。この作品も設置場所を踏まえて制作されたが、後に同一の作品が他の場所にも設置されている 写真6[右]●新宮晋:遥かなリズム,1980,長野市城山公園/長野市は、既成の作品を購入し設置する方法で、設置事業を行った。したがって、作品は設置場所と無関係に制作されたもの
 一つは75年ごろから始まる「文化の時代」という流れと関連する。この時期までは、評価基準があいまいで、客観性に欠ける文化を自治体が取り扱うことに対して警戒感があり、積極的な取り組みが行われてこなかった。ところが、所得水準が欧米諸国と肩を並べ、市民生活の関心が生活全般の質的向上、とりわけ文化的な面に移行する傾向がみられるなかで、自治体による文化行政の重要性が認識され、一種の文化行政ブームになる。もう一つは、やはりこのころから盛んにいわれるようになった「地方の時代」という流れと関連する。高度経済成長と過度の中央集権化により喪失した地方の魅力や個性を回復し、機能性、合理性を優先しすぎて画一化してしまった都市環境に人間性を取り戻し、人間的な豊かさを創造しようという 動きである。
 彫刻設置事業はこのような風潮のなかで活性化していった。とりあえず、結果が恒久的な「形」になる設置事業は、わかりやすい文化行政として自治体に好まれた。「彫刻=文化」というような認識が形成されたのだ。野外彫刻に対し、生活空間に文化的要素を取り入れる、市民に芸術を普及啓蒙する、あるいは地域の個性を表現するというような意義が見いだされ、設置事業の新たな目的となる。設置事業はこれまでの都市環境整備に対する手段としてだけではなく、文化振興や地域の個性の表現にも貢献する複合的な目的を持つ事業に変化したのである。
 長野市では既成の作品を購入するという方法で73年から、八王子市では彫刻シンポジウムというイベントを開催し完成作品を
譲り受けるという方法で76年から、仙台市ではアーティストにオリジナル作品の制作を依頼するという方法で77年から設置事業を開始し、各事業が以後の他都市における事業のひな形となる。横浜市は設置事業に予算を編成することはなかったが、都市計画家の田村明(たむらあきら:1926−)が中心となり、民間活力を活用した独自の事業展開を開始した。この時期、彫刻家の佐藤忠良(さとうちゅうりょう:1912−)や新宮晋(しんぐうすすむ:1937−)などの活躍が目立つが、多数の彫刻家が設置事業のなかでデビューを果たす(写真5、6)。
 これらにやや先行する形で、帯広市は70年から、旭川市は72年から、札幌市は72年の冬季オリンピックの影響もあり、開催前後の期間にまとまった設置を行った。これら北海道の諸都市では、開拓地として潜在的に文化的要素に対する要求が強かったこと、冬季の景観形成として設置事業がとらえられたこと、本郷新(ほんごうしん:1905−80)や山内壮夫(やまのうちたけお:1907−75)など地元に優れた彫刻家が存在したことが、先駆的な設置事業の展開につながったと推察できる。
 80年代になると、全国レベルで設置事業は加速度的に拡大する。これらの都市は、いずれも前述の先進都市を事例としながら事業を推進し、作品の傾向も事例とした都市と類似する。ただし、設置場所を踏まえて制作される作品は一部でしかなかった。
彫刻設置事業の
全盛と衰退
都市における設置事業はこんな具合に展開したが、田園地域でも新たな試みが始められる。これは80年代後半からブームになる「町おこし」「村おこし」、ならびに竹下内閣の「ふるさと創生基金」と関連する。過疎化に悩むいくつかの町村が彫刻設置事業を選択する。
 88年から神奈川県藤野町、89年から広島県瀬戸田町、92年から北海道洞爺湖周辺の三町村がそれぞれ独自の事業を開始した。いずれも、風光明媚な自然地を舞台としているが、その目的は、話題性の喚起とイメージアップによる観光振興、文化的雰囲気づくりによる地域社会の活性化といったところであった(写真7〜9)。
 こうして大都市から農村や漁村、離島まで、全国津々浦々で彫刻設置事業が展開することになる。そのピークは89年にあり(写真10〜14)、以後バブル経済の破綻のなかで、90年代半ば以降、設置事業は急速に激減する。95年の阪神大震災が提示したガレキの山の情景が、人々の「物」に対する欲望を縮小したのではないかという人もいるが、米ソ冷戦の終結により、「社会から自律した」アートの存在意義が消滅してしまったことが、その深層に横たわると考えてよい。その証拠に、日本とほぼ同時期の60年代初頭から連邦政府の補助金を支給して巨大な抽象彫刻を主体とする大規模な設置事業を推進していたアメリカ合衆国は、レーガン政権以降、その予算を大幅に縮小したのである。
 そして、日本で野外彫刻のことをパブリックアートと呼ぶように
なったのは、実はこの時期なのである。ただし、それは「公共的な場所に設置された、社会から自律した美術作品」を意味していた。
アートディレクターの登場
こんな状況下にあって、パブリックアートは、新たな展開を見せる。これまでの彫刻設置事業の成果は、パブリックな空間に独立して存在する彫刻群であり、それらは必ずしも設置場所を踏まえて制作されるとは限らなかった。アーティストが設置場所を意識した制作を行ったとしても、作品を取り巻く都市空間がそれらに歩み寄ることは皆無に近かった。
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写真7[左]●池田徹:森の記念碑,1990,神奈川県藤野町ふるさと芸術村/90年代に入ると、農村や離島でも彫刻設置事業が行われるようになった 
写真8[右]●伊藤隆道:風の水面,1992,北海道壮瞥町洞爺湖/一周36.5kmの洞爺湖の周囲には、数十点の彫刻が設置され「とうや湖ぐるっと彫刻公園」になった
写真9[左]●真板雅文:空へ,1989,広島県瀬戸田町サンセットビーチ/海水浴場にそびえ立つ大規模な抽象彫刻 写真10[右]●フィリップ・キング:トワイライト・オベリスク,1989,千葉市幕張新都心/彫刻設置事業の最盛期の一点。当時、彫刻家はみな忙く、価格が急騰した。海外の彫刻家の参加も多かった
写真11●建畠覚造:波貌,1990,品川区大井ふ頭中央海浜公園
写真12●掛井五郎,加藤昭男:田園交響楽,1990,豊島区池袋西口公園
写真13●籔内佐斗司:犬も歩けば…,1990,横浜市横浜ビジネスパーク
写真14●大野秀敏:火の形,1990,渋谷区東京都体育館前
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写真15[左]●宮島達男:Luna,1994,立川市ファーレ立川/ファーレ立川では、換気塔、車止め、ベンチなどがアート化された 写真16[右]●依田久仁夫、エステル・アルバダルダネ:ベンチに座るタチカワの女たち,1994,立川市ファーレ立川
写真17[左]●ジュリオ・パオリーニ:Meridiana,1994,新宿区新宿アイランド/中庭の舗装パターンとして実現した作品。建築家とアーティストのコラボレーションによる 写真18[右]●長沢英俊:Pleades,1994,新宿区新宿アイランド/建築外構の一部として実現した作品
ところが、ここで登場する新たなパブリックアートは、建築や造園の一部となったり、換気塔、車止め、ベンチ、照明施設などとしての機能を持つなど、都市空間と物理的に融合するものだった。
 それは、アートディレクターという新たな役割を担う人々の登場
により実現される。彼らは、与えられた再開発地などのフィールドを見て、多数の国内外のアーティストを選び、彼らと建築家や造園家とのコラボレーションを企画、誘導した。94年にはアートディレクターの北川フラム(きたがわ:1946−)による立川市の「ファーレ立川」
写真15、16)、南條史生(なんじょうふみお:1949−)による東京都新宿区の「新宿アイランド」(写真17、18)が相次いで完成し、そこに設置された多数の作品のなかには、すでに「物」として独立して存在しない、つまり、その姿を建築や造園の中に埋没させるものまで現れる。
 アーティストは作品ではなくその発想を建築家や造園家に対して提供することにより、パブリックアートを実現するようになったのだ。99年には福岡市の「博多リバレイン」、2000年にはさいたま市の「さいたま新都心」、2003年には東京都港区の「六本木ヒルズ」で、大規模なパブリックアートが展開された。
 「物」としての作品ではなく、アーティストの発想を都市空間の創造に活用しようという考え方は、今日さらに発展を見せた。例えば、アーティストが建築家と高度なコラボレーションを実現することにより、建築のコンセプトにまでアーティストの発想が反映され、結果として、都市空間全体がパブリックアートといえるような事例まで見られるようになっている。もちろん、その成果はすでに一般的な意味でのパブリックアートを超えている(写真19)。
アーティストによる
ランドスケープデザイン
彫刻設置事業やパブリックアートと並行する形で、それらに関連しつつ展開した、見落としては
写真19●ジェームズ・タレルによる建築のライティング。安藤忠雄設計の宝塚造形芸術大学・大学院サテライトの外壁をカラーキネティクスによるさまざまな色の光で演出。建築全体がアートになった
ならないもう一つのパラダイムが存在する。アーティストによるランドスケープデザインへのアプローチである。日本におけるこの分野は、アメリカ合衆国やフランスでユダヤ系のアーティストが中心となって繰り広げた、アースワークを源とする流れとは無関係だと考えてよい。
 70年代から80年代初頭にかけて、彫刻シンポジウム(複数の彫刻家が一堂に会して作品の制作を行うイベントで、59年にオーストリアで始まり、日本やヨーロッパなどで現在も開催されている)において、彫刻家同士の共同制作という形態をとりつつ、都市公園などのオープンスペースの設計、施工が行われたことがある。この試みは、日本人彫刻家が始めたもので、その舞台はヨーロッパと日本であった。70年のサンクト
マルガレーテン(オーストリア)、71年のニュールンベルグ(ドイツ)、73年の香川県小豆島、81年の山口県萩市などにつくられた作品は、石を素材とするものの、彫刻というよりは造園といったほうがよいものだった。彼らは、公共空間のデザインには、個人の個性に頼らないアノニマスな性質(匿名性)が必要だと考え、それを共同制作により達成しようと考えたのだ。個人の個性を超えた超個性に対する興味深い試みではあったが、残念ながら「奇跡のような類い希なる個性」を何より価値あるものだとする当時、そして今日の美術界を支配する価値観のなかで評価されることのないまま終焉したのであった。
 ではあるが、これらのムーブメントから生まれた石彫家3人のユニット「環境造形Q」(68年から88年まで活動)は、彫刻設置事業
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写真20[上]●環境造形Q:水の広場,1984,名古屋市名城公園 写真21[右上]●イサム・ノグチの最後のプロジェクトといわれる「札幌モエレ沼公園」は、189haの敷地に、高さ50mのモエレ山を中心として、遊具、野球場、テニスコートなどさまざまな施設を含む巨大な公園。98年より順次オープンし、2005年にグランドオープンする予定 
写真24[右下]●東京都日の出町の廃棄物処理場建設予定地の森の中に1996年につくられた若林奮による「緑の森の一角獣座」は、2000年に東京都により強制収用された
写真22[左]●荒川修作、マドリン・ギンズ:養老天命反転地,1995,岐阜県養老町養老公園/面積=約1.8ha 
写真23[右]●廃校になった小学校を利用して1997年より整備が始まった北海道美唄市「アルテピアッツァ美唄」。彫刻家の安田侃によるスカルプチャーガーデン
のなかで、作品設置場所の歴史や風景を活用した作品をコミッションワークとして多数実現し、彫刻設置事業の歴史に実り多い異色な一ページを加えることになる(写真20)。
 90年代に入るとアーティスト個人の発想が、庭園や公園として実現されるようになる。90年から造成が始まった「札幌モエレ沼公園」は、イサム・ノグチ(1904−88)
が死の直前に制作した模型を実現するものである(写真21)。95年に岐阜県養老町の養老公園にオープンしたテーマパークのような有料施設「養老天命反転地」は、荒川修作(あらかわしゅうさく:1936−)とその夫人で詩人のマドリン・ギンズによって構想された(写真22)。97年より整備が始まった北海道美唄市の「アルテピアッツァ美唄」は、安田侃(やすだかん: 1945−)による美しいスカルプチャーガーデンだ(写真23)。2000年に廃棄物処理場の造成により強制収用され消滅した東京都日の出町の「緑の森の一角獣座」は、若林奮(わかばやしいさむ:1936−2003)が作ったものだった(写真24)。これらの作品は、近代以降新たな様式の展開を停止した日本の庭園史を考えるうえで、重要な存在だといえるだろう。
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