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それらとは無関係であり、少なくとも当初はそれらを模倣するものではなく、オリジナリティに富むものだった。
宇部市の事業は、2年ごとに野外彫刻展を開催して入賞作品を買い取り設置するという形態をとり、設置の対象となる作品は、以前の大部分の彫刻とは異なり、社会的価値観やイデオロギーなどとは無関係なテーマを持つ純粋な美術作品であった。抽象作品が多く、これまでの人物像とは大きく異なってはいたが、具体的な設置場所を踏まえて制作された作品ではなかった。
ここで、設置事業に、その名称からも明らかなように、都市環境を修景し、美観に優れたものとする目的、つまり景観形成にかかわる目的が生じたのである。この背景には、当時の宇部市は石炭産業による公害や無秩序な市街地の形成が全国的に有名で、環境改善に対する要求が強かったことがある(写真3、4)。
神戸市は、68年から宇部市と |
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ビエンナーレ形式により「現代日本彫刻展」を須磨離宮公園で開催するようになる。これも宇部市と同じ目的と内容を持つ事業であった。
70年代初頭は、公害問題をきっかけとして都市環境に対する関心が高まった時期である。都市を潤いのある快適な環境に整備しようとする機運が生じ、緑化が盛んに進められ、この過程で緑や花と同列のものとして彫刻がとらえられたのである。「彫刻=緑・花」というような認識が形成される。
一方、アーティストの側から見れば、作品発表の機会が乏しかった当時において、宇部市と神戸市の野外彫刻展は貴重な作品発表の場となった。設置事業は都市環境整備を目的として推進されているにもかかわらず、アーティストは野外彫刻展における「社会から自律した」作品の発表を目的としていたわけで、両者の思惑には大きなズレが内在していた。当時のアーティストや美術関係者の多くは、米ソ冷戦構造のなか、プライベートな表現や抽象表現を禁止する |
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社会主義リアリズムとの対立関係を踏まえ、作品の社会的な自律性が何より大切だと信じて疑わなかったのである。でも、これは裏を返せば、アーティストが社会から自律した作品を制作することにより、社会性を獲得できたということでもあった。ではあるが、ともかく風で動く彫刻や大規模な抽象作品など、野外に設置されることを想定しなければ制作されなかったであろう作品が登場したことは、設置事業が野外彫刻のみならず彫刻自体の発展に大きく貢献したことを示している。
70年代は、「彫刻のある街づくり」事業がゆるやかに拡大する期間である。60年代は、都市環境整備に対する目的が重視されていたわけだが、ここで、新たな目的が付け加わることになる。 |
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