情報誌「ネルシス」 vol.5 2004

P-14[インタビュー]アートで都市空間を彩る…南條史生
P-22 アートシティ・ベルリン…シヲバラタク
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2003年の夏、新潟の中山間地域、越後妻有(えちごつまり)で開催された「越後妻有アートトリエンナーレ――第2回大地の芸術祭」に訪れた人は、会期中の50日間で20万人を超え、その数は国の美術館で催される「現代美術展」の入場者数を一けたも上回った。全国から集まったボランティアやワークショップに参加した人は1万人を数え、新潟県内への経済波及効果は
およそ188億円で、第1回の1.48倍になるという。
景気低迷のなか、地方の村おこし事業も尻すぼみとなり、農山村はますます疲弊していく状況下で、新潟県と十日町圏域6市町村が連携で推進している「越後妻有アートネックレス整備構想」と呼ばれるこの試みは、地域住民との「協働」を通して地域振興を行なう新しいモデルとして高く評価されている。9年もの準備期間を費やし事業を牽引してきたのがアートプロデューサーの北川フラム氏だ。折しもインタビューを行った2004年5月には、東京・京橋にあるINAXギャラリーで彼の仕事と思想をめぐる「北川フラム展」が開催されていた。期間中行われた講話で語られた彼自身のプロフィールを紹介しながら、アートをめぐる数々の仕事を通して紡いできた北川氏の思いを語っていただいた。
 北川氏は、新潟の高田市で貸本屋を営み、良寛研究でも
PROFILE
株式会社アートフロントギャラリー、現代企画室代表。1946年新潟県高田市生まれ。東京芸術大学美術学部卒業後、1971年より現代美術のプロモーション活動を開始。ガウディ展、アパルトヘイト否!国際美術展などを企画し全国を巡回。1994年ファーレ立川のアート計画で日本都市計画学会計画設計賞受賞。
有名な故・北川省一の長男として生まれる。父・省一は、良寛から学んだ生活信条を「貧道」と呼び、生涯の道標とした。作家の中野重治や椎名隣三らと交友を結び、復員後、農民・労働組合運動に専念。息子にノルウェー語で「前進」を意味する語「フラム」を名付ける。
 そんな父親のもとに育ったフラム青年は18歳のとき新潟から上京。戦後の日本をめぐるさまざまな思想が学生運動の盛り上がりとともに交わされるなかで、谷川雁、埴谷雄高、吉本隆明らの文化運動に強く影響されながら新しいコミュニティのあり方を模索する。特に谷川雁の「工作者宣言」に感動し、「ぬえのような人間でなければ媒介者にはなれない」という谷川の言葉を胸に、東京芸術大学入学後、美術の抱える問題を明治以後の日本の問題ととらえるようになる。
 そして昨年、故郷である新潟の中山間地域を舞台に取り組んだ「大地の芸術祭」を通して北川氏は「かつて媒介者としての覚悟を語った谷川雁の限界を悟り、妻有のプロジェクトがそれを超えると確信している」と語った。何かに突き動かされているような彼の活動力の根源は、常に時代の体現者だった父の生き様にあるのかもしれない。
都市と農村の問題が表面化した現代
Q.新潟の山間地域でこのようなアートイベントを展開する意図をお聞かせください。
北川――越後妻有地域は、夏は蒸し暑く冬は豪雪という米作りに適した気候で、1500年もの永きにわたり農業を生業としてきました。近代化の流れのなかで都市に労働力や情報が集積していく反面、中山間地域の人口は減り、文化もコミュニティも崩壊の危機にさらされています。具体的な数字でいえば、ある町では最大14000人だった人口が現在は4000人。20年後には1800人くらいになるといわれています。そうなれば、町そのものが守れなくなり、住んでいる人たちも社会から取り残されている感じになってしまう。厳しい自然を相手に生きてきた知恵とプライドがまったく意味のないものになってしまいます。いにしえのアジアに開かれていた時代、北前船が物流の大動脈だった時代、日本海側は「表」だったわけですから。そこを元気にするお手伝いをしたかった。
 もう一つ、都市にもさまざまな問題が表面化しました。特に1994年、当時「神戸株式会社」と呼ばれ都市運営では全国の見本となっていた神戸市が阪神淡路
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長澤伸穂「透けてみえる眼」/十日町市南鐙坂。空家での設置。回転灯篭には地域の年長者と子供たちの顔が透けて重なる 古郡弘「盆景-II」/十日町市下条の休耕田。土壁の製作に参加した人々の手形が残った 手塚貴晴+手塚由比の設計による越後松之山「森の学校」キョロロ/松之山町
小沢剛「かまぼこ型倉庫プロジェクト」/松代町まつだい雪国農耕文化村センター「農舞台」内。豪雪地帯の近代史を物語る独特のアーチ屋根(かまぼこ屋根)の歴史を検証する作品 水内貴英「ミーツ」/十日町市鉢集落。ツリーハウスの茶室。作家が1年集落に滞在し、住民と共につくった茶碗でお茶を振舞った 新田和成「ホワイトプロジェクト」/川西町ナカゴグリーンパーク。地元の年配者が中心になって手縫いした約8000枚の布による平和へのメッセージ
クリスティアン・バスティアンス(オランダ)「越後妻有版・真実のリア王」/まつだい農舞台にて上演。地域の年配者出演によるリア王を元にした芝居の上演。舞台美術も作家による作品 ジャン=ミッシェル・アルベローラ(フランス)「リトル・ユートピアン・ハウス」/松代町小屋丸集落。小さな集落に建てられた小屋の内部には「良く生きる」ための言葉を持つ壁画が展開された ジャネット・ローレンス(オーストラリア)「エリクシール/不老不死の薬」/松之山町上湯集落。既存の蔵を利用した作品。内部は地域の植物を使った薬草酒を味わうことができる研究室のような構え
「越後妻有アートトリエンナーレ―第2回大地の芸術祭」より(写真:竹田直樹)
大震災に見舞われ、都市の脆弱性を露呈した。そしてオウム真理教があの辺りを中心に広がり、日本列島を震撼させた神戸連続児童殺傷事件が起きる。
 さらに、都市に集約された利潤の余剰で地方を賄うという構図が崩れ、地方分権を国は言い出した。これからは都市と地方のゆがんだ分業体制を見直し、都市は地方を内に含み、地方も都市を内に含む「都市と地方の交感」を考えていかなければいけないと思ったのです。
里山が都会人の五感を
解放した
北川――2000年に引き続き開催された20 03年の妻有のイベントに多くの人が集まりリピーターになりましたが、その理由は、なにより五感を通して大地とかかわれた
ことが大きかったと思います。山あり谷ありの地に散在する50カ所以上ものアートを見て歩くことは容易ではありません。しかし、訪れた人々にとって本当におもしろかったのは新潟独特の蒸し暑さと、風や草のにおい、そしてわれわれのDNAに刻み込まれた懐かしい里山であって、アートは道祖神に過ぎなかったかもしれません。
 では、なぜアートだったのか。いくつかの理由があります。まず、アーティストは新しい視点でその場所の魅力を発見します。また、作品をつくるためにその土地の所有者を説得する努力をする。他人の土地にアーティストの勝手な夢想をつくるわけですから、その地域を知り、地域への共感が生まれない限り土地の住民を説得することはできません。そして実際につくり始めると、アーティストよりはるかにスキルフルな地元の人たちが
技術を提供し、そこに「協働」が生まれる。それが中原佑介氏のいうところの「芸術発生の瞬間」であり、アートが地元のものとなる瞬間でもあります。
 さらに、アートはそこに行かなければ伝わってこないものだからこそ、人を呼ぶ力がある。これが実際に妻有に人を呼んだ力だったのです。この経験から、人を結ぶコミュニケーションの手立てとしてアートにはまだ力があると実感しました。実際につくられた作品はなかなか見事なものが多く、その土地がつくらせていると思えた作品がたくさんあります。都市には五感を解放させるものがありません。アートを好き嫌いではなく、わかる、わからないという話にしている美術自体の問題もありますが、そういうことへの挑戦でもありました。
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磯辺行久「信濃川はかつて現在より25メートル高い位置を流れていた-天空に浮かぶ信濃の航跡」/中里村堀ノ内。信濃川沿いの地形や地質を調査するワークショップを実施し、河川の浸食によってできた崖に幅100mの足場をかけ、マーキングによってそれぞれの時代の水位を再現した(写真:竹田直樹)
「協働」のおもしろさを伝えたい
Q.アートの世界は往々にして作品解説に終始し、受け手の話はあまり出てきません。妻有の場合は、たくさんの地元の人々を巻き込んでいますが、彼らはどんなかかわり方をし、どんな感想を持っているのでしょうか?
北川――このイベントは県と市町村の予算で行うため、議会の承認を得なければなりませんが、当初、「まちづくりになんでアートなんだ」と議会のほとんどの人が反対しました。しかし反対するということは重要なことです。そこから徐々に、過疎問題やまちづくりとは何かを、村の人もアーティストたちと一緒に考えていくことになった。これがいちばん重要なことです。
 2003年のイベントでは、土地の4割の人がおもしろいといってくれた。これは大変なことです。例えばイリヤ&エミリア・カバコフの「棚田」という作品がありますが、ここの田んぼを提供してくれた方は途中でやめるつもりだった。
だけどたくさんの人が見に来て感動してくれたことで、「俺が生きている間、ずっとやり続ける」と言ってくれたのです。農政が迷走している現在、農業は彼らにとってこれまでのように誇りを感じられるものではなくなってきている。作った米が誰かの元に届いて喜ばれているという実感を持つことが重要だということを、イベントを通じて地元の人たちが感じ始めたようです。松代には農耕文化村センター「農舞台」というのがあります。冬の間はほとんど誰も来ませんが、呼びかけたら30人くらいの人が集まり、この施設を拠点にして毎週木曜日、東京の代官山で松代の農産物を販売するような動きも出てきました。
 また、イベントをサポートするボランティアの学生を中心とした「こへび隊」というのがあります。彼らは気ままな都会の若者たちですが、地域の人たちとかかわるなかでいろいろ変化していく。アートフェスティバルとは別に夏祭り、雪祭りなど地元の行事にも参加し、
コミュニティの一員になりつつあります。彼らは思想・信条で動いているわけではありません。違う場所とつながり、異質な人々と「協働」するおもしろさを素直に実践しているのだと思います。地元の人たちも彼らと付き合ってみて、おもしろいことが起きているという実感は生まれています。今までは過疎が進行して夏祭りもできなくなっていたわけですからね。

Q.北川さんはよく「協働」という言葉を使われますね。ご自身も学生のころからコンサートや芝居を開催し、「皆と協働しながら、ものづくりの裏方を好んでしてきた」と語っておられます。専門に勉強された仏教彫刻の世界についても「そこには職人による幸せな協働の世界があった」とするように、「協働」への思いが強いようですが……。
北川――人間というのは一人より、大勢で同じことをやるほうがずっと楽しいんじゃないかと思っているんです。個人だと才能だけの話で終わってしまいますが、
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[左]稲刈りに参加するこへび隊。2002年秋[右]アーティストグループ、フタボンコのワークショップに参加する北川氏。十日町市街地にて(以上写真提供:アートフロントギャラリー)
チームプレイになると、そこには助け合いや工夫など、いろんな要素が出てくる。
 ガウディもそうです。彼は今でいうところの人気建築家で、裕福でもあった。しかしスポンサーを失い途方にくれるなかで、職人たちと「協働」できる世界があり、そこにこそ自分のやりがいがあることに気づくわけです。だからこそ、ときには喜捨を乞い、解体した建物の廃材をもらいながら少しずつ造っていくことができた。それがテクスチャーにも現れていますね。そういう工夫のなかから出てくるおもしろさが「協働」なのです。実際、ガウディの造形と世界観は日本の建築界に大きな影響を与えました。
 妻有での「盆景―II」と題された古郡弘氏の巨大な土壁に
ついている手形は、参加した人たちの誇りと喜びだと思っています。共同作業はローテクにならざるを得ませんが、ローテクというのは身体感覚ですからね。僕はメディア・アートがあまり好きじゃありません。意識が覚醒するというのはあるかもしれないけど、五感が解放されていくという感動に乏しいのでつらくなるのです。
無垢な心でアートを楽しむ
公共空間をつくる
Q.越後妻有アートフェスティバルに先駆け、街なかにパブリックアートを大胆に投入したプロジェクトとして94年完成の「ファーレ立川」がありますね。このときは都市景観大賞などさまざまな賞を
受賞されましたが、ここで北川さんがやろうとしたことはなんでしょうか?
北川――ファーレ立川は91年のコンペでした。調査のために街を歩いてみるとちっともおもしろくなかった。建築のほうはすでに設計が終わっていたので、そこは手をつけられない。ならば歩道や排気塔など建築家があまり興味を持たないところにアートを入れようと考えました。そして日ごろ現代美術に関心のない人たちにも喜んでもらえるものをと思ったのです。「触ってください、座ってください」をテーマとしました。ファーレ立川でアートに触ってきた子供たちは、美術館に行っても触りたがるので職員は困った、という話を聞かされましたが、立体物はそれでいいと思っています。
 僕らは建築界や美術界に半分足が引っかかっています。すると彼らの評価が気になってしまう。それにとらわれることは非常に危険です。子供がおもしろがるもののほうが絶対いい、と思わないと、間違った方向にいってしまう。少なくとも建築には資本の論理と機能という絶対の条件がありますが、美術にはそういう条件が極めて乏しい。理屈でつくりあげるしかない。そのときの拠るべきものというのは五感を通してのおもしろさなわけで、それは子供のほうが断然正直だと思っています。
 以前「アパルトヘイト否!国際美術展」というイベントを企画しました。南アフリカの人種隔離政策に反対する作家たちが、これまでにつくった自分の作品を出展することでアパルトヘイトへの反対を訴えるという展覧会でした。12mもある大きなトラックに154点の作品を積み、日本全国を巡りました。興行師のような気分で町に入ってサーカスのように展覧会を開きたいと思ったのです。ある町でのことですが、長谷川潔の版画を見て小さな子供が「こんな黒はみたことない!」と言うのです。長谷川の銅版画は、その深い黒で有名でしたが、そんなことを知らない子供が素直に感動の言葉を漏らす。子供は本当にすごいと思いました。最終的には全国の194カ所を巡業し、入場者は延べ38万人を数えました。そのとき以来「専門家より子供が喜ぶものをつくる」と いうところにいつも立ち返るようにしています。
アートプロジェクトを通して
社会の価値転換を迫る
Q.最後に、アートプロデューサーの仕事とは?またその魅力を教えてください。
北川――アートというのは人と場所、人と人をつなぐ媒体だと思っています。また公と私を越えてつながっていく。アートの役割はそれに尽きます。
 妻有でも他人の土地にものをつくるわけですから、他者と他者が出会うことが、私有制を越えていく。そのときに「公共」という日本に最も欠けているものが起き始める。美術は極めて個人的で生理的なものです。そして人間の生理というのはつながっている。美の感じ取り方にも「類の共根」があると
信じています。お祭りのようにみんなでがんばってやったときにつながる瞬間というのがある。そういう出来事は必ず人を引きつけていきます。
 僕が裏方が好きな理由は、演奏しているピアニストとそれに熱い視線を送っている観客の両方を見ることができるからです。それが僕にとってのプロデューサーの醍醐味ですね。それと「協働」の魅力。そういう裏方の魅力をもっと知ってもらいたいと思っています。アメリカではコミュニティデザインという教育があり、フランスではメディエーターという、地域振興に無償で参加する制度があります。そうした動きを横目で見ながら妻有で、そして日本で、いろいろ挑戦していきたいと思っています。次の大地の芸術祭は2006年です。ご期待下さい。
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