情報誌「ネルシス」 vol.5 2004

P-18[インタビュー]アートプロジェクトで社会の価値転換を迫る…北川フラム
P-26 パリの新しい祭り「白夜:ヌイ ・ブランシュ」…岡井有佳
P22-25
ベルリンを壁が隔てていたころ、東西の境界にあった検問所の一つがチェックポイント・チャーリーだ。東西ベルリンの分岐点として世界の注目を浴びた。現在はベルリンの壁博物館が併設されている。ベルリン生まれの写真家フランク・ティールは、アメリカ兵とソ連兵のポートレートがそれぞれ両面に配置する作品をストリートにインスタレーション*している。ベッヒャー夫妻の系譜を思わせるコンセプチュアル・フォトだが、それを見たすべての人々に、この地との関連と、不可解な「恐れ」を想起させる優れた作品だ。
 また、ベルリンの壁の画家として著名なティエリー・ノワールが旧東を象徴する車、トラバントにペイントを施した作品
東西ドイツ統一後、ボンからベルリンへの首都移転に伴い、壁跡地が再開発されることになった。「ポツダム・プラッツ・プロヘクト」は世界有数の建築家150人ほどが参加し、300あまりの建設が進められている、欧州でも戦後最大規模の都市再開発だ。ポツダム広場はかつてベルリンの「黄金の20年代」に、世界で最も交通量の多い場所だったが、ナチスの主要施設に近いことから激しい空爆を受け、廃墟となっていた。映画『ベルリン天使の詩』で「ポツダム広場が見つからない」という老人の嘆きは、半世紀を経て癒されることとなった。導入路ともいえるベンツ社エリアとソニーセンターの入り口に、ベルリンの壁の一部が
を路上駐車させているのがユニークだ。博物館館長であったライナー・ヒルデブラントのメッセージ「ロールス・ロイスが英国の未来を担ったように、トラビィもまた、DDRの過去を象徴している」が記されている。
*Installation:作品とその環境を総体として観客に呈示すること
常設された。路面には、すでに消失したベルリンの壁の跡が描かれたランドマークが記されている。新興高層建築群の入り口にあるこの眼下のラインに、通りかかる人のほとんどが目を留め、腰を下ろし、立ち止まり、見つめてゆく。
文・写真……シヲバラ タク
「パブリックアート」とは、都市と人の身体感覚や記憶を呼び覚まし、それらを再開発・創造する契機を与えるものではないだろうか。都市開発とは同時に人の身体感覚に影響を与え、相互に生成変化していくことであり、そこでアートはダイレクトなツールとなる力を持つ。ベルリンでは特にそのこと強く感じる。「ベルリンでおもしろいアートは何ですか?」とよく聞かれるが、「ベルリンは都市そのものがアートです」と答えている。創造と破壊の連鎖と分断というアートのキーワードを、これほど具体的に生きている都市はほかにない。すべての事象が過去から経緯する「現在」として、無関係には存在できない街なのだ。ワイマール共和国の時代から、ナチス第三帝国、DDR(東ドイツ)、統一ドイツと激変す るなかで、ベルリンの再開発はその場所の「記憶の痕跡」というべき事象が繰り返し検証されてきた。
 アートが国境を超えたネット時代の共時性のなかで語られるなら、そうしたベルリンを取り巻くテーマは抹香臭いアナクロニズムかもしれない。資本主義が発達し、国家という主体の解体・拡散のなかで、空間や時間への立脚点は変容していく。しかし現在の帝国主義リバイバルの見せる眼前の殺戮は、隠された代償を再び気づかせてくれる。ベルリン市民の反応はそこに敏感である。20世紀の間「被害」と「加害」を同時に生きた街は、いまだ都市の存在証明を、その歴史の分断と連鎖のなかで問い続ける必要が残されている。
 また、建築都市ベルリンにあってはアートという言葉は境界を
持たない。アートは個的なオブジェや建築の副次的な産物ではなく、プロジェクト全体の文脈の形勢に位置づけられてゆく。ダニエル・リベスキントのユダヤ博物館が、建築としてのパースペクティブというよりはヴァニシングポイント(消失点)を描き出しているように、建築にも「壁」はない。
 ここではそうした広義な「パブリックアート」を紹介したい。それぞれが、都市の記憶を蘇生し、過去の問題を現在形としてリアルに想起、思考させるツールとして機能している。過去の史実は学べても体験はできないが、アートによって個々の想像力とともに、そのイメージを再び生きることができる。その問いかけから、過去を踏まえた未来の都市創造をベルリンは希求している。
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アルブレヒト王子通り(現在のニーダーキルヒナー通り)には、かつてナチスのゲシュタポ(秘密国家警察)、SS(親衛隊)、帝国公安局などの本部が置かれていた。その牢獄や地下室跡が発掘され、再開発の問題が浮上。そこでナチスの「犯罪」に焦点を当てたエキシビション「テロのトポグラフィー」が開催された。地下の壁面には、ナチスの組織構成やユダヤ人絶滅政策などが写真でインスタレーションされている。誰でも自由に見学することができるオープンエアだ。
 この展覧会はテロのトポグラフィー財団によって企画・運営され、当初は3カ月の予定が多くの注目と反響を呼び、会期は延長されてゆく。そしてこの地に、ナチスの歴史をインフォーメーションする、建築家ピーター・ズントーによる「ドキュメンタリーセンター」の建設へと発展してゆく。封印されかねない過去についてオープンに語り合おうという機運をこの展示はもたらした、と財団員は語る。
ブランデンブルク門からウンター・デン・リンデンを東へ向かうと、ルストガルテン(王宮広場)の手前にオペラ座がある。隣接するベーベル広場では1933年5月のナチス政権下、「非ドイツ的」とされるユダヤ系の書物約2万冊を火に投ずる焚書が行われていた。国民啓蒙宣伝大臣ゲッペルスの演説の傍らで、エーリッヒ・ケストナーは自著が焼かれる光景を見つめていた。
 この地にその記憶を留めるため、イスラエルのアーティスト、ミシャ・ウルマンによって「地下の図書室」がつくられた。地面の約1m2の四角いガラス窓から中をのぞくと、一冊の本も入っていない白い書棚が静かに地下へと続いてゆく。夕暮れ時からは内部の光が次第に外部へと拡散してゆく。焚書には皮肉にも「書を焼くものは、己を焼くであろう」という一節を持つハインリッヒ・ハイネの詩集も含まれていた。意外にも焚書はベルリンばかりでなくドイツ全土で行われた。ナチス学生同盟によって組織的に計画されたのだ。
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建築家ダニエル・リベスキンドによるユダヤ博物館には入り口もなく出口もない。旧ユダヤ博物館と地下の通路で連結されているのだ。中心となるホールはなく、錯綜する「線」の中を身体は回遊し続ける。その過程でヴォイド(空虚・虚無)と遭遇する。建築そのものがユダヤの歴史を体現し、また表象する構造なのだ。そして地下の鉄の重い扉を開けると、高い天井から差す一筋の光以外、何もない空間に投げ出される。ここは「ホロコーストの塔」と呼ばれている。
 また亡命と移住をテーマとした「E.T.A.ホフマンの庭」は、49本の列柱が並ぶスクエアなガーデンである。上部にはオリーブの木が植えられ、12度に傾斜している。49本のうち48本はベルリンの土が使われているが、最後のひとつはエルサレムの土を使い、ベルリンを象徴している。土地を追われたユダヤ人が亡命の地に根づく希望を表現する。ベルリンに在住していたE.T.A.ホフマンは、リベスキンドの敬愛する詩人だ。
再開発の進む旧東地区で19世紀の建築がリニューアルされた。「クンストラーハイム・ルイーゼ」は、一人のアーティストが一部屋をインテリアも含めて自由にインスタレーションしているアートホテルで、50人近いアーティストが参加している。バナナが飛び交う部屋や、カラフルな長靴が壁面に張りついている部屋など多彩だ。ゲストは部屋を見て好みのタイプを選択できる。
 なかでも、ベルリンのアーティスト、エルヴィラ・バッハによる「ブラック、ホワイト、レッド」の部屋は人気が高い。3人の女性の後ろはバスルームだ。一般にこうしたアートホテルは高価だが、ルイーゼでは100ユーロ前後から宿泊できる。
 ベルリンにはほかにもこうしたアートホテルが数多くある。歴史的建築エルメラーハウスをリノベーションし、ゲオルグ・バーゼリッツの作品を中心に構成した「アートホテル・ベルリン」もお勧めだ。
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