情報誌「ネルシス」 vol.5 2004

P-26 パリの新しい祭り「白夜:ヌイ ・ブランシュ」…岡井有佳
P-38 [シリーズ]自然浴環境―4  都心部の清流復元でヒートアイランドの緩和なるか
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文…山家一男
写真…石井雅義
束稲山から望む平泉町。中央に流れるのが北上川。対岸には、
源義経が没したという高舘。その奥には中尊寺などが点在する
平泉町は岩手県南部に位置し、人口約9000人の小さな町である。
 一方で、平安時代に奥州藤原氏がこの地を治め、その後四代100年にわたり、当時の都であった京都と並び称される最先端文化が花開いた地として有名である。
 源義経の終焉の地としても知られ、中尊寺、毛越寺など文化遺産も多く残されていて、減少傾向にあるとはいえ、平泉町には年間に170万人もの観光客が訪れる。
 そんななか、平泉の文化遺産がユネスコの「世界遺産」暫定リストに登載され、2008年の登録を目指して景観整備、受け入れ体制など各事業が大きく動きだしている。
 地域行政と世界遺産登録との間で揺れ動く町民。
 その道のりは、町民が生まれ育った地を見つめ直す絶好のチャンスでもあった。
 
高舘にある松尾芭蕉の有名な句碑。「夏草や 兵どもが 夢の跡」この地からの眺めに涙して詠んだ
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まちづくりの最大の
チャンス到来
しかし、そこには乗り越えるべき壁があった
岩手県南部を貫く日本第5位の大河、北上川。その両岸に岩手県平泉町は位置する。義経、中尊寺だけでなく、松尾芭蕉、西行が有名な句を詠んだ地としても名高い平泉町。現地に降り立ち、再開発が進んだ駅前を過ぎると、なんとも美しい日本の田園風景が広がる。田んぼの畦には菖蒲の花が咲き、束稲山の麓にはツツジの花が満開である。花に溢れた風景には、平泉の浄土景観という文化遺産が大いに関係していた。
 平泉の文化遺産がユネスコの世界遺産暫定リストに登載されたのは2001年のことだった。これまで減少の一途をたどっていた観光客や寂れつつある商店街を抱える平泉町にとって、それはまさに願ってもないチャンスの到来である。
発掘作業が続く無量光院跡 義経堂 柳之御所遺跡
世界遺産登録に向けた新たなまちづくりに町民は活気づいた。
 しかし、そこにはクリアしなければならない多くの問題が待ち構えていた。「世界遺産登録への最大の条件となるのは、未来にわたって世界遺産の景観を維持できる環境整備」が問われる。
 「世界遺産となれば、住民の生活に多くの負担がかかることになる。そのコンセンサスが最も心苦しく、大変な問題だった」と千葉和男町長は語る。世界遺産に登録されると、直接指定対象となる文化遺産を厳格に保護するためのコアゾーンと、その周辺に設けられる利用制限区域となるバッファゾーンが指定される。特にコアゾーンに指定された地区では、史跡を維持管理していくために大きな制限が加えられるのだ。
コアゾーン確定への
住民の理解
意外な展開を見せた景観条例
なかでも、藤原秀衡が平和の理念で造営した無量光院跡のコアゾーン追加の住民コンセンサスが問題だった。2000年12月の世界文化遺産登録指導委員会で、専門家から追加指定の必要性が指摘
されたことを受けて町が取り組んできたものだ。
 ほかのコアゾーンとの最大の違いは、追加指定地内に多くの住宅が集中していたことだ。史跡のためとはいえ、そこで暮らす住民に大きな負担を強いることになる。発掘調査も必要で、その後は柳之御所遺跡を合わせた一帯を史跡公園として整備していく予定だ。世界遺産登録までに、観光客の導線の基点となるバイパス沿いの「道の駅」と一体化した施設の整備も急がなければならない。
 史跡公園の中に住居を構える大変さは想像以上のものである。また、ほかの住民の要望として、北上川堤防工事と一体となったバイパスの建設に反対する声もあがった。遺跡の発掘・復元はいいが、平泉の誇る北上川を望む景観を壊したくないという地元へのこだわりがあった。北上川は荒れる河川だ。これまでにも多くの水害をもたらしている。それでもなお、自然のままに残したいという要望が強いのは、高館からの眺望を愛してやまない町民が多いからである。
 無量光院跡の遺跡全体を史跡指定して守るという重要性は、長い時間をかけ住民に理解してもらった。堤防・バイパス工事は、
バイパスを堤防内側の低いゾーンの、できるだけ景観を邪魔しない位置に設定し、堤防の緑化を行って現状にできるだけ近い形に戻すことで町民のコンセンサスを得ることができた。最終的なコアゾーンの確定に向けて、無量光院跡周辺は2004年5月、文化審議会で史跡の追加指定の答申を受け、世界遺産登録に向けて大きな壁を乗り越えることができたのである。
 また、景観保護のため、平泉町では全国に類を見ないほどの厳しい景観条例が制定されている。住民と町役場が何度も話し合いの場を持ち、取り決めたものだ。
 もう一つの問題と思われていたこの条例は、思わぬ展開を見せた。「意外だったのは、住民のほうがより厳しい条件を持ち出してきて、むしろ行政側がブレーキをかける場面が多く見られたこと」と平泉町役場総務課課長補佐の高橋誠さんは語る。「世界遺産のためにするのではなく、自分たちの子孫に対して、誇れる景観を残しておくためにするべきこと」という住民の強い願いが感じられたという。最も厳しい地区では、建物の最大高が10m。屋根の勾配や植栽の最低面積基準まで設けられている。
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CGで再現された無量光院の当時の姿。総務省が進める地域情報化モデル事業(eまちづくり事業)として認定され、多くの専門家が加わり「都市平泉」CG復元事業が行われた
 小さな町に降ってわいたような世界遺産の話は、まちづくりを加速させた。箱物が重点に語られ、町をいかに変えていくかが論点となりがちな再開発のなかで、平泉ではむしろ何を守るべきか、最小限変えていいものは何かに論点が集中していった。
「道の駅」建設で史跡ポイントだけでなく平泉全体をゾーンで楽しんでもらえる町に
「観光地として見た場合、平泉の最大の問題点は、国道4号線のラインに沿った通過型の観光ポイントになってしまったこと」と高橋さんは指摘する。
 かつては観光客がJRを利用して平泉に滞在していた形から、観光バスによるパックツアーに組み込まれ、中尊寺・毛越寺だけを短時間で見て、足早に町外の温泉宿に向かう現在のスタイルに大きく変化をしていたのだ。事実、JR駅前や史跡近隣周辺では人込みを見ることはなかったが、中尊寺にたどり着くと、バスガイドに連れられた多くの人々と出会うことができる。
 「少しでも観光客の滞在時間を多くするためには、観光
ポイントをラインからゾーンに広げる必要がある。無量光院の史跡公園とバイパス建造による『道の駅』の新設はトライアングルゾーンを形成するための最高の施設になる」と高橋さんは語る。「道の駅」から毛越寺、中尊寺まで、それぞれ歩いて20分ほど。散策にはもってこいの距離である。さらに、各史跡周辺の豊かな自然環境も楽しんでもらおうと「ウォーキング・トレイル」も設けた。観光客の周辺散策と町民のレクリエーションの双方に利用できる施設である。将来的にはコアゾーンへの車の進入も制限し「パーク・アンド・ライド」ゾーンを設定して、ゾーン全体を散策する形にまで持っていきたいと、町のマスタープランでは未来像を描いている。
平泉の求心力となっているのは争いごとを嫌い、世界平和を願う極楽浄土の思想
平泉町役場世界遺産推進室長補佐の八重樫忠郎さんは、この地独自の風土について「平泉はそもそも地の利と気候に恵まれた豊かな町だった」と話を始めた。奥大道の陸上交通、太平洋海運、北上川水運の発達と相まって
発展してきた。北奥羽は金、馬など中央が珍重する物資の産地。北日本の交通の要衝であり、北上川のもたらす肥沃な大地が豊かな農産物をもたらしてきた。そのため「奥州藤原文化は栄華を極めたが、藤原氏亡き後は、争い事をしてまで暮らしを支える必要はなかった。後には2つの寺院と、のんびりとした風土、人を押しのけない人柄だけが残り、そのまま現代に至った」のだという。
 景観を変えたくないという住民の強い意識も、これまで守り通してきたものへの愛着があるからだ。
 京都はその後も繁栄を続け、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返してきたため、当時の姿を残すものは少ないが、平泉にはまだ数多くの遺跡がそのまま眠っている。その発掘の指揮を執り、世界遺産登録に向け中心となって動いているのが八重樫さんだ。
 「30cmも掘り起こせば、800年前のかわらけが山のように出てくる。それほど、この地の遺跡はなんの手も加えられることなく、すぐそこに埋もれたままなのです」と考古学出身の八重樫さんは、心から楽しそうに話してくれた。
 発掘を開始した当時は、人の土地を勝手にいじるなという
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中尊寺と毛越寺を新たなラインで結ぶ自然豊かな遊歩道「ウォーキング・トレイル」。国土交通省、警察庁、平泉町の三者が一体となって推進する事業となった。自然景観を残しながらステップや手すりを設けたことで、歩行者にやさしい道となっている
平泉町役場世界遺産推進室長補佐の八重樫忠郎さん。手にしているのは発掘した「かわらけ」。最近はスーツ姿でいることも多くなったが、この作業着姿がいちばん落ち着くと語る。世界に通用する奥州平泉文化の重要性を住民に伝え、自信を掘り起こした
建設が進む北上川の堤防とバイパス、道の駅。地域住民と行政が共同で運用する「道の駅」は、国土交通省の提唱で1999年からスタートしたもの。ドライバーの休憩の場としてだけでなく、名産品や観光情報など地域情報発信の場としても期待されている
中尊寺金色堂の覆堂
「古都ひらいずみガイドの会」事務局長の関宮治良さん
「ウォーキング・トレイル」で出会った一関のガイドたち。話すほどに、笑顔がこぼれてくる。ボランティアガイドは、地域を超えた取り組みとなっている
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毛越寺で5月の第4日曜日に行われる「曲水の宴」。平安時代そのままの庭園と衣裳が、当時を偲ばせる
(写真提供:平泉町)
苦情も多かった。しかし、奥州平泉文化の本来の意味を知るうち、住民の協力も得やすくなった。また、発掘作業をする住民たちの意識も変わってきたという。
 金色堂だけが印象に残る奥州平泉文化だが、その独自性は、藤原初代清衡が残した「中尊寺建立供養願文」の一文「戦争のない仏国土の建設」にあると力説する。供養願文の思想を表現した浄土庭園を生かすまちづくりを清衡は提唱してきた。「京都は覇権の文化だったのに対し、平泉は平和や祈りの文化を求めた。ユネスコが世界遺産の暫定リストに載せることを決定した理由は、争いのない極楽浄土を建設しようとした平泉の精神性が高く評価されたため。単に復元するだけでなく、その精神性を伝えれば世界に大きなアピールができる場所となる」と八重樫さんは見ている。
 地元の人々は、この平泉の持つ思想的な文化を知るうち、次第にわが町に対する愛着が誇りに変化し始めてきている。八重樫さんは、町民の「地元力」とでもいうべき平泉への自信をも同時に掘り起こして歩いたのだ。
見えない平和思想を伝える
地元の力
シルバー・ボランティアガイド
コアゾーンとなる文化遺産を見て回る際に、ぜひとも必要となるのが観光ガイドの存在。
 「中尊寺内にガイドはいるけれど、平泉全域をガイドできる人材が不足しているのが現状」
と語るのは「古都ひらいずみガイドの会」事務局長の関宮治良さんだ。商工会議所事務局長でもある関宮さんは、2003年に「シルバー・ボランティアガイド」の養成講座を立ち上げた。リタイヤした人の生涯学習の一環と、生まれ育った地元の持つ魅力に気づいてもらいたいとの想いもあった。講座には、毎回予想を超える応募があると関宮さんは顔をほころばせる。現在は14人のシルバー・ボランティアガイドが活躍している。
 関宮さんは、ガイド養成に関して3つの基本スタンスが必要だと語る。平泉にはいろいろな人が観光で訪れる。歴史に深い興味を抱いた人もいれば、たまたま立ち寄った人もいる。第一の基本は、そんな人たちに対して同じ目線からガイドをする「やさしさ」が必要だと語る。
 第二は「歴史は自分の憶測で勝手につくらない」ということ。歴史を常に客観的にとらえ、平泉の正確な歴史を伝えることが、ガイドとして重要なことである。歴史的資料にはさまざまなものがある。そこに憶測や主観が入り込むことが多いし、歴史に魅せられた人たちが陥りがちなことだ。「各地で義経伝説がおもしろおかしく語り継がれているように、そこにはロマンや奇跡を期待しがちだが、何よりも主観で語らないことが大切」と関宮さんは釘を差す。
 さらに関宮さんは「平泉には目に見える史跡があまり多くない。平泉に砦や城壁などが少ない理由は、藤原清衡が戦を想定したまちづくりをしなかったため。
争いや殺生を心から恥じ、極楽浄土を本気で形にしようとしたのがこの町であり、そこが最大の魅力」と語る。目で見えるものよりも、むしろ目で見えないもの。平泉がつくられた平和の理想郷への思想そのものを、ガイドする人にいかに感じて共感してもらえるかが第三の基本だという。そのためには、地元の人の奥州藤原文化への理解がぜひとも欠かせない。
 世界遺産登録となると、海外からの観光客も増える。そのため、英語と中国語の通訳ガイド養成講座も2004年から開設した。ここにも多くの人が応募してきたという。しかし、国家試験をパスするにはかなりのスキルが要求される。今、熟年パワーの地元力が試されている。
元エンジニアの発想が生み出す地元にこだわった絶品蕎麦「地水庵」
「史跡も大切だけれど、その地で出される食も大切」と語るのは平泉の手打ち蕎麦の店として有名な「二足の草鞋 地水庵」のご主人、伊東信治さんだ。平泉の近隣で生まれた伊東さんは、医療用電子機器のエンジニアとして関東で就職。各地の名店を食べ歩くうちに、蕎麦のおいしさに魅せられていった。
 「田舎蕎麦という言葉が嫌いだった。洗練されてなく下品なイメージ。ならば、地元で自家栽培した蕎麦で殻を入れない本格的な蕎麦を出そうと思った」
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「古典蕎麦」。太めの麺だが、十割の蕎麦でこの滑らかなのど越しは珍しい。かむと蕎麦の香りがいっそう濃くなる。ほかの店では味わえないオリジナルの蕎麦だ
ご主人の伊東信治さん。今後は、この店で出すすべての蕎麦を自家栽培でまかないたいと語る
高橋さんのつくった炭は、地元の陶磁器の店「せき宮」にもディスプレイ用に分けている。ここの女性店主は東京からのUターン組で、岩手県内の作家を多く扱うユニークな店づくりで人気
 伊東さんは41歳のときに会社を辞め、現在の地に店を開いた。畑を手に入れ、蕎麦の自家栽培を始める。店で出すすべての蕎麦をまかなうまでには至っていないが、水は近くの沢から運んだもの、天ぷらにする野菜は、有機栽培をしている農家から分けてもらっている。地のもの、地の利を最大に生かした平泉でしか味わえない蕎麦の追求のため、伊東さんはさらに知恵を加える。
 自家栽培蕎麦を使った十割の「古典蕎麦」は粗挽きにした蕎麦の実を蕎麦粉でつないだ珍しいタイプ。この手法の発想を聞くと「粗挽きソーセージ」と、こともなげに答える。自家栽培の蕎麦しか使っていないため、一日10食ほどしか用意できないそうだ。一方、天ぷらにも驚かされた。そうめんよりさらに細い麺を渦巻状にし、カリッと薄く揚げたものが野菜天ぷらに付いてくる。伊東さんは照れながら「小麦粉に蕎麦粉を混ぜ、細い穴から押し出したもの。天ぷらのおいしさは衣にもあるので、衣自体も味わってほしくて試行錯誤した。言わば蕎麦粉の天ぷら」と語る。元エンジニアの本領発揮だ。
 観光地だから一見の客が多い。団体で訪れる客には、素早く大量に出すことが要求される。しかし伊東さんは、ゆっくりと時間を
かけて、平泉自体を楽しみ、「地水庵」の空間と、この地でしか味わえない滋味をしっかり感じてほしいと考えている。全国の蕎麦好きの間では、ここはすでに有名な店になりつつある。ここの蕎麦を目的に来店し、それからついでに中尊寺などを散策する人も増えてきた。この味がリピーターを増やしているのだ。現地にこんな店があるということも、平泉の地元力を高めている。
地方暮らしを楽しむプロの
「地元力」が、平泉の新たな名産品を生み出すパワーになる
前出の高橋誠さんは、多彩な趣味の持ち主だ。子供のころから何でもつくってしまう性格のようで、トラクターやいろいろな工具が置いてある作業場は、休日はさながら趣味のスペースである。
 高橋さんが最近凝っているのは「炭焼き」だ。最初はドラム缶で始め、ここ数年は本格的な窯で炭を焼くようになった。自家用のナラ炭、タケ炭を作るほか、野菜や栗、パイナップルなども炭にしてオブジェとして楽しんでいる。場所柄、炭焼きに使う木材は豊富にある。自宅の床下に撒き、居間のこたつは、もちろん昔ながらの炭のこたつだ。ほかにも脱臭材など、
さまざまに応用が利く。
 炭焼きのおもしろさは窯を開ける瞬間だという。いったん火を入れれば、炭化が進んだ状態を見極めるのは煙だけだ。「青い煙が消える瞬間が窯をふさぐタイミング。あとは冷えるのを待ち、出来具合がわかる窯開けの瞬間までがワクワクの時間」と高橋さんは、なんとも楽しそうである。修学旅行で訪れる神奈川県の中学生たちに、自宅で炭焼きを教えてもいる。趣味の域を超えて、もはや地元の楽しみを伝える伝道師だ。
 「山と田んぼに囲まれた何もないところ」と遠慮がちに語る町人は多いが、田舎にあこがれる人から見れば、これほど楽しみのチャンスに恵まれた土地はないのではないかと考えさせられる。家のまわりすべてが遊び場と化すのである。「地元力」は、高橋さんのような地域を楽しむ力からわいてくる。
 平泉は、岩手県で2番目に小さな町にもかかわらず、年間20を超える祭りやイベントを行ない多くの国宝や重要文化財を守り続けてきた。そのため、防災やイベントの際の交通整理の役割を担う組織として、消防団を中心に、警察や行政が一体となった地域住民による緊密なコミュニティが形成され、
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田植え時期の風景。水田に映りこむ自然が美しい
長年にわたってうまく機能してきている。「消防団の協力なしにこの町は動かせない」と人々が語る。もちろん消防団は、住民のボランティアによるものだ。この住民の結束力も、今後の平泉のまちづくりを担う大きな「地元力」になるだろう。
 まちづくりの一環として、「道の駅」で販売する地元の名産品の掘り起こしも新たな課題だ。漆器で有名な「秀衡塗り」など伝統の逸品もあるが、高橋さんのような隠れた達人が生み出す名産品に今、期待がかかっている。町役場農林課が主催した
「名産品コンテスト」では、ふきのとうと味噌をアレンジした「ばっけみそ」が優勝した。メロンづくりの達人が手塩にかけた「黄金メロン」もあると聞く。小麦粉を練って伸ばした「はっとう」の達人もいる。遺跡発掘隊では、北上川で獲れるモズク蟹でだしを取ったすいとんが、まかないとして食べられているそうだ。モズク蟹といえば、上海蟹と同じ種類のものである。聞いただけで食中枢が刺激される。そんな平泉の新しい名産品が並び、観光客の舌を魅了する日が間もなくやってくる。
平泉バイパス開通や、都市計画の変更などインフラ整備については、国の直轄事業として「全国都市再生モデル事業」地区に採択された。これを受けて平泉町では「まちづくり構想検討委員会」を立ち上げ、課題の整理、まちづくり構想の検討を進めている。また、2003年度に国の直轄事業として採択された「世界遺産へ向けた庭園文化都市まちづくり構想」調査事業をベースに、国・県と連携しながら、2004年度に創設された「まちづくり交付金」も今後活用し、平泉の特性を生かしたまちづくりを推進している。
平泉町に関する詳しい情報は
平泉町観光商工課ホームページまで。
http://
www.town.hiraizumi.iwate.jp/
平泉町 千葉和男町長
浄土景観を前面に出したまちづくり
現在、平泉町では「歴史と文化が調和したまちづくり」をテーマに、「平泉町都市計画マスタープラン」を策定中です。世界遺産登録を視野に入れて、歴史と文化による都市再生と景観に配慮したまちづくりが基本となりますが、自然環境保全とともに現在の優れた景観資源を保護していくため、景観条例を制定しました。住民の方にはたいへん厳しい内容になりましたが、史跡と共に生きてきた平泉町の宿命ではないでしょうか。「浄土景観」という平泉独自の風土を守り、育てながら、穏やかでまとまりのあるまち並みを実現していきたいと考えています。
観光ポイントをゾーンに広げる
景観整備と共に「歩いてまわれるまちづくり」にも力を注いでいきます。道の駅とJR平泉駅を基点に、平泉各所に点在する史跡や景観をじっくりゆったりと楽しんでいただけたらと考えています。そのためには、平泉を通過する方のためのバイパス、町内の生活道路、観光客のための歩行通路の3点から道路のあり方を考え、互いにできるだけ混在しない、安全で利便性の高い通行設備の設置が必要と考えています。
平泉ファンを増やして行きたい
古来から日本各地の文化と結びついていたこともあって、平泉町では数多くの祭りやイベントが季節ごとに行われています。7月末の水掛御輿は、松尾芭蕉の生誕の地である深川からご協力をいただき、町民参加型のお祭りとして長い時間をかけて定着したものです。8月の大文字まつりは京都とのつながり。1月に行われる毛越寺二十日夜祭は、躍動的で祭りのなかでも最も人気があります。見るだけでなく、季節での違いを感じて、町民と触れ合い、平泉の魅力をできるだけ多くの人に知っていただきたいと思います。西行が愛した束稲山の桜の再現も進んでいます。現在建設中の堤防も、完成後は植栽を施し、花・草木がふんだんにある浄土の景観を回復したいと考えています。「一度訪れれば十分な町」ではなく「何度でも足を運びたくなるような町」に感じてもらえれば最高ですね。
「春の藤原祭り」義経公東下りの行列。2005年のNHK大河ドラマ「義経」の放映も決定した
●プロフィール●
1968年岩手県庁入庁。総務部財政課財政主査、総務部地方振興課長補佐、大船渡市助役、土木部総務課長、農政部次長を歴任後、2000年岩手県庁退職。2001年1月に平泉町長に就任。祭りの音を聞くと血が騒ぐ。59歳。
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