情報誌「ネルシス」 vol.6 2005

P-07 日本における「みなとまちづくり」の取り組み
P-14 [CASE02]長崎港の水辺再生(長崎市)

P08-13
目次
門司港レトロ事業 (北九州市門司区)
衰退した港町をレトロ感あふれる観光都市に変えた景観デザイン
[左]埋め立てを回避された船だまりは、港町の風景をつくる核となっている
[右上]船だまり周辺に回遊性を持たせるために架けられたはね橋
[右下]1912年に建設された旧門司税関ビルは、修復し、休憩・展望施設として利用されている
九州の最北端に位置する門司港は、ここ数年で北九州屈指の一大観光都市に変貌した。
歴史を感じさせるレンガ造りの建物群、船だまりの入り口に架かる美しいはね橋、
シックな舗装材のプロムナード、シンプルでどこか懐かしい街灯。
港町の風情漂うこの空間は、年間350万人の来訪者を迎えるまでに成長した。
いったい何がこの街を変えたのか。それは、市民と行政、コンサルや地元企業が
一つになって取り組んだまちづくりが実った証だった。
門司港の歴史
門司港は明治時代に計画的につくられた港町で、それまでは製塩業を主な産業とする一農漁村であった。1889(明治22)年、塩田であった土地に門司築港会社が設立されたことから門司の繁栄が始まる。この年開港。1899(明治32)年に一般開港に指定されて以来、石炭輸出港として大いに発展。その後も、北九州工業地帯の原料・製品の輸出入港として
アジアまで商圏を広げていった。最盛期には年間200隻の客船が入港し、国内航路含め年間600万人の乗降客があったといわれ、日本における四大貿易港としての大きな役割を果たしていた。大陸航路の待合室としてにぎわっていた旧大阪商船門司支店〈1917(大正6)年〉や、旧日本郵船門司支店〈1927(昭和2)年〉の高度な建築技術は、当時の繁栄ぶりを伝えている。
 しかし1970年代の半ばに入ったころから、産業構造の転換により、急速に街が衰退していった。関門連絡船が廃止され、大型船によるコンテナ輸送など輸送形態の変化も影響し、船だまりが、死んだ水たまりとなってしまったのである。人口も減少の一途をたどり、かつての繁栄を偲ばせるはずのレンガ造りの建物も、古びた港町のセットのように打ち捨てられ、このあたりに人影はほとんどなかった。
門司港のレトロ事業
1988(昭和63)年、JR門司港駅が、鉄道駅舎として日本初の国の重要文化財に指定された。1914(大正3)年に開業したフレンチルネサンス様式の「門司駅」(当時)は、建物のデザインの美しさだけでなく、九州最古の駅舎としての歴史的価値が高く評価された。
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門司港ホテル前の港湾緑地
アルド・ロッシ設計の門司港ホテルを望む
こうした明治・大正期の優れた建造物群を有する門司が「レトロ」と「ウォーターフロント」という、歴史遺産と自然の魅力の双方を生かしたまちづくりに向かっていくのは今でこそ自然に見えるが、当時、そこに至るまでにはさまざまなハードルがあった。
 北九州市が門司港にある遺産を生かした一大観光拠点にするべく事業の検討に入ったのが1987(昭和62)年。1994(平成6)年には、旧門司税関ビルなど歴史的建造物の修復・移築を終わらせていた。しかし、レトロ事業で先行していた港湾の再開発事業では、使わなくなった船だまりを埋め立てる方向ですでに動いていた。
 門司港レトロ地区の成功のカギとなった公共空間のマスター
プランを担当した中野恒明氏(アプル総合計画事務所代表)は、当時を振り返って次のように語る。
 「門司港の成功は、船だまりの埋め立て計画をやめさせたことでしょう。以前から地元や識者から反対の声が上がっており、私たちの提案も船だまりを残す内容でした。しかし埋め立てを前提にすでに運輸省(当時)の認可を受けていましたから、差し替えるのは並大抵の努力ではなかったと思います。当時の港湾局の担当者が第四港湾建設局と本省に何度も足を運んで計画変更の承認を得たと聞いています。当時就任したばかりの末吉興一市長の英断と彼らの働きがなかったら、どんなデザインをしても今の門司港はなかったでしょうね」
 こうして残された船だまりは、門司港レトロ地区の印象を決定づける重要な核となった。図らずも、アメリカのウォーターフロント開発で大成功を収めたボルチモアとまったく同じ空間構成だった。さらに中野氏は、もうひとつの成功要因は、行政と設計者の間で緊密な連携をとることができたことだという。
 「門司港レトロ事業は、竹下内閣時代に自治省が行った『ふるさとづくり特別対策事業』の補助金でスタートしました。これは計画の自由度がありましたので、現存する歴史的建造物を残すことにポイントを置き、あえて“つくらない”事業を目指しました。それに当時の運輸省の歴史的港湾環境創造事業が加わり、緑地系のオープンスペースの整備が
並行して進んでいきました。磨けば宝石になるような建物がたくさんありましたからね。縛りがなかった分、全体をつなぐ触媒のような動きがとれるようになったのです。地区全体の景観デザインをやらせていただきながら、建築、港湾、商業、緑地、道路と、それぞれの分野と連携していくことができました」
 中野氏のこうした動きが、全国でも珍しい公共空間主導のアーバンデザインを実現させた。従来の縦割り行政では決してできなかった空間全体の質と密度は、みごとに整合し気持ちのよい環境となっている。景観デザインという仕事の本質が見えてくる。
石畳の道は、左側が旧運輸省の港湾緑地で右側が自治省だが、一体的に整備した例。レトロなコンクリート照明柱は1990年度のグッドデザイン景観賞を受賞(設計:アプル総合計画事務所+南雲勝志)
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国際友好記念図書館。友好都市である中国大連市に建設された図書館の復元。前庭広場はレンガ舗装し、芝生部分のレベルを少し上げることで船だまりの視点に変化をつける
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手前がアルド・ロッシ設計の「海峡プラザ」。右奥に見えるのが旧大阪商船ビル
いい街とは地元の人が
誇りに思う街
門司港レトロ地区がグランドオープンしたのが1995(平成7)年。以来、JR門司港駅の駅前広場や親水広場で、さまざまなイベントが開催されている。にぎわいづくりの大きな推進役が「門司港レトロ倶楽部」だ。地元・民間・観光協会・行政が連携し、門司港レトロ地区の観光振興と地域の活性化を一体となって推進することを目的に1995年12月に設立され、門司港レトロ地区で催されるイベントの企画・運営、PR活動などを行っている。門司港レトロ倶楽部の設立当初から常駐し、企画運営を担当する上田曜子さんは、街の反応を次のように話してくれた。
 「門司港はほんとに寂れた街でしたから、古い建物がまさか
観光資源になるとは皆さん思っていなかったようです。それが数百万人も観光客が訪れるようになったのは感慨深いことでしょう。地域への誇りが生まれたことで、皆さん非常に協力的です。設立からちょうど10年。これからの10年は、レトロ地区に集中する来訪者を、商店街などもっと街中に誘導するような仕掛けを考えていきたいと思っています」
 門司港地区は、1988年に70万人だった観光客が2003年は350万人となるなど、15年間で5倍に急成長している。しかし、そのことで新たな問題も生じてきた。例えば観光地特有の一極集中型の弊害であり、門司港の場合は保存された船だまり近くに来訪者が集中して半ばテーマパークの様相を見せ、周辺の、生活感のある門司港らしいたたずまいを味わうことなく、
JR門司港駅前のレトロ広場
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あわただしく通り過ぎてしまう人が多い。今後は魅力スポットにもさらに面的な広がりを持たせ、奥行きのある街にすることを目指している。
 まちづくりに参加したときはまだ三十代前半だったという中野氏が、門司港にかかわってかれこれ20年近く。「まちづくりの街医者」を自認する彼の「いい街」とは?
 「地元の人が街を誇りに思い、がんばっているからいい街なんです。観光客というのはそういう人たちとの交流を求めてくる。美しい街というのは、地元の人たちが維持している活動そのものが美しいのです。映画のセットのようなものはいずれ廃れると思っています。門司でも、ちょっとキッチュでもいいからレトロチックに、という話があったのですが、反対しました。門司港にある古い建物は当時の最高技術で造られている。そこに“まがい物”はないでしょう。観光客というのは何百万人が訪れても、一過性のものです。10万人の地元の人のほうが経済効果はあります。ですから地元の方々が快適だと思えるデザインをしていく必要があり、それが結果として観光にもつながっていくと思っています」
2002(平成14)年、新しく創設された土木学会の「景観デザイン賞」で、門司港レトロ地区環境整備が満場一致で最優秀賞を受賞した。歴史的建造物や自然環境など資産を生かすための環境デザイン手法、レトロをキーワードにした歴史に耐える本物志向のデザイン、地元市民が継続してまちづくりに参画し快適な歩行空間・水際空間をつくりあげた姿勢、などが高く評価されたのである。
 地方がますます厳しくなっていく時代、いかに街の資産を発掘し価値を高めることによって、住民が誇りに思う街を育てるか。地方のまちづくりはこれからが本番だ。
[上左]親水広場 [上中]海峡プラザのにぎわい [上右]JR門司港駅前レトロ広場の噴水
[下]海峡プラザ前の休憩施設。テーブルとベンチは市が設置した
新たな門司港都市再生計画に向けて
北九州市は空襲を受け、戦後に区画整理されているのですが、小さな路地を残したまま整備されたので、風情のあるいい路地がたくさん残っています。そこで、界隈散策のために道標を整備しましょうと提案しました。今年度から動きだすと思います。まちづくり交付金などを活用した新たな「門司港都市再生計画」です。
 また、まだ保存していなかった建物、例えば旧大連航路の上屋、客船ターミナルが壊されそうになっていたので、保存を提案しています。戦前の建築家・大熊喜邦(1877〜1952)による設計で、国会議事堂や旧横浜銀行集会所、旧山口県庁などの設計者でもあります。現在、土地も建物も国の施設で、市が管理しているのですが、全体を港湾緑地とし、休憩所や展望所に
中野恒明氏がこれから提案したいこと
再生できたらいいと思っています。古い建物を保存するために地元の方々が基金をつくり、昭和初期にできた三井物産の社宅をリニューアルして使ったりしています。そういった意味でも、次は広がりを持った内容になりそうです。
 市のほうも、集客数を現在の年間350万人からさらに増やしていこうとしています。2006年3月16日の新北九州空港の開港予定に向けて、市長も観光客倍増計画を言い始めました。残したかったたくさんの建物がありますから、その機をとらえてリニューアルの方法を提案していきたいと思っています。    (談)
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