情報誌「ネルシス」 vol.6 2005

P-08 [CASE01]門司港レトロ事業(北九州市門司区)
P-20 [CASE03]蔵のまち河崎のまちづくり(伊勢市河崎)

P14-19
目次
長崎港の水辺再生 (長崎市) みなとを生かすまちづくり
港と歴史的まちなみの融合。歩いて知る新しい長崎
長崎出島ワーフ。飲食店が軒を連ね、港を眺めながら食事が楽しめる
江戸時代の鎖国政策のなかで唯一、
貿易港として海外に開かれていた長崎。
町には今もその面影が色濃く残り、観光地として全国に知られている。
しかし、時代の変化で観光客は減少。人々にとって魅力ある町とは何か。
長崎は港を持つ町ならではのまちづくりを実践し、長崎臨海地帯の再開発が
一段落する2006年に向けて大きく花開こうとしている。
海辺に生まれた
新しい施設郡
古くから港町として知られる長崎だが、意外なことにこれまで、東京のお台場や横浜のみなとみらいのように、港に人々が集う施設がなく、一般には活用されてこなかった。その理由として挙げられるのが、海に小高い山が迫り平地が乏しいという地形、そして、かつては軍艦もつくられていたなど、造船による臨海部の閉鎖的なイメージである。
 しかし近年、造船、水産業の停滞、都市機能の市街地への集中などといった問題が浮上。その問題を解決すべく持ち上がったのが「ナガサキ・アーバン・ルネサンス2001構想」である。
この長崎都心・臨海地帯の再開発構想は1986(昭和61)年3月から始まり、商業施設「夢彩都」「長崎出島ワーフ」をはじめ、2004(平成16)年3月には「長崎水辺の森公園」、2005(平成17)年4月には同公園内に「長崎県美術館」がオープン。2006(平成18)年春には世界でも有数の長大斜張橋「女神大橋」などもでき、主だった施設が一通り完成する。
 そのなかでも特に長崎水辺の森公園は「“土地の記憶”を継承する大地の舞台」をコンセプトに、海辺から広がる芝生の広場や公園内を巡る運河、舞台をイメージした石畳などで構成され、気持ちのいい水辺の空間を演出。2004(平成16)年度のグッドデザイン賞を受賞するなど優れた
大型船のほか、ヨットも停められる
水辺の森公園。家族連れが多く見られる
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[左]水辺の森公園「大地の広場」。芝生と海がつながり開放感あふれる空間 [右]長崎美術館の建物の間にも運河が流れている。運河ギャラリーや運河劇場としても利用される
[左]風待橋。公園内には運河が流れ、いくつか橋が架かっている [中]長崎出島ワーフにある店舗2階からの眺め。左手が水辺の森公園 [右]長崎美術館裏手にはゆるやかなスロープが続く。手すりにはライトが埋め込まれ夜間に通路を照らす
ランドスケープデザインとなっている。さらに建築家・隈研吾氏により、長崎の石畳をイメージして設計された長崎県美術館ができあがったことで、公園一帯の景観がいっそう際立ったものとなった。昼間は平日でも家族連れが多く見られ、新しい長崎の憩いの場として人々に定着しつつあるようだ。
回避できる町にしたい
「この構想は人々に港と触れ合ってもらえるようにと始まったものでもあります。臨海部の開発に
よって、これまでは山の上から眺めていた海が、水辺からの景色も素晴らしいのだと認識されたことで、明らかに人の流れが変わりました。しかし港が注目される一方で、これまでの繁華街である浜の町が取り残される可能性が出てきました。これからの課題は、少しずつ距離の離れている浜の町と長崎駅、港の3拠点をどうつなぎ、人々を巡回させていくかということです」と話すのは財団法人ながさき地域政策研究所(通称:シンクながさき)の常務理事・菊森淳文氏。同研究所は県の外郭団体で、調査、政策立案、具体的案件の
審議などを多方面にわたり行っている。その地元に根ざしたシンクタンクという視点から、これからはもっと外に対しての演出も必要だと言う。
 ハード面の整備はできつつあるが、観光客は景観だけでなく、その町ならではの習慣や歴史的背景を楽しみたいというソフト面も求めている。そのソフト面に着目した取り組みを行っているのが、長崎市の「長崎市観光2006アクションプラン」である。
 「平成2年の長崎『旅』博覧会をピークに観光客数は減少しています。
その背景には、団体旅行で名所を見て回る観光から、個人で自由に見て、食べ、学ぶといったオリジナリティ重視の観光へと移行していることが挙げられます。長崎は歴史を学べる地であり、また2006年に向けて新しい施設が続々とできている。こうしたことを踏まえ、長崎市全体がパビリオンとなり、歩くことで町を知り、楽しんでもらう。長崎の魅力を深く体験してもらおうと考えた企画です」と、長崎市企画部総合企画室主幹の島崎昭秀氏は語る。そして同プランの柱となるのが、日本で初めての町歩き博覧会「長崎さるく博’06」である。
 「さるく」とは長崎弁で
「ぶらぶら歩く」という意味。単なる名所を巡るのではなく、長崎にゆかりのある約2kmのコースをガイドが解説しながら2時間ほどかけて散策する。そしてこの博覧会の特徴は、行政はルールづくりなどのサポートにとどまり、実際の運営は地元住民が行う市民主体のイベントであるという点である。「長崎はローマだった」「ハイカラさんが往来しよらす」「媽祖様と唐りゃんせ」といったユニークなネーミングからなる約40ものコースは、80人以上の市民プロデューサーたちがルートを考えた。もちろん案内役のガイドたちも市民のボランティアだ。
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[左]山の上から望む海は、住民にはなじみ深い風景 [右]西の坂に立つ日本二十六聖人記念聖堂。後ろの斜面には家々が立ち並び、長い階段が設けられている
長崎の郷土料理「しっぽく料理」
グラバー園。かつて外国人の居留地だった
[左]長崎さるく博’06推進委員会事務局広報宣伝班リーダーの高橋秀子さん [右]長崎市企画部総合企画室主幹の島崎昭秀氏 [下]長崎さるく博’06のコースマップ「長崎港水辺散策〜出島ワーフ・長崎水辺の森公園〜」。ガイド付きの約40コースは予約制。http://www.sarukuhaku.com
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出島復元プロジェクトで復元された出島の西側部分
出島史跡整備計画図
「一番船船頭部屋」内、商館員の部屋。内部も当時を再現している
伝川原慶賀筆「長崎出島之図」。長崎大学附属図書館経済学部分館蔵
現在は講習を修了した200人以上が認定されており、最終的には350人のガイドを養成するという。
 すでに2004年には、この博覧会を市民によりよく理解してもらうためにと、コース数を縮小したプレイベントを行った。プレイベントには予想以上に多くの人たちが参加し、その手応えを感じているという。なかでも人気があったのが、長崎の郷土料理「しっぽく料理」を老舗の富貴楼で楽しみ、その周辺を巡るコース。食事代が加わるため参加費は割高だったが、女性を中心に支持を得た。
 「長崎に来てくださる方をおもてなしするという意識で取り組んでいます。地元住民が案内することで、異文化が混じり合った“わからん(和華蘭)まち”をよりよく知ってもらい、また来てみたいと思っていただけたら。2006年を節目として博覧会を行いますが、その後もこの取り組みは続けていきます」と、長崎さるく博’06推進委員会事務局広報宣伝班リーダーの高橋秀子さん。
歴史の大舞台を
復元する試み
そして、長崎を語るうえで欠かせないのが「出島」。明治以降の周辺部の埋め立てにより原形が失われてしまったが、現在、19世紀初頭の扇形の島を再現しようと「出島復元プロジェクト」が進行している。すでに一部の建物が復元され一般公開されており、2006年には第二期工事が終了して西側部分の町並みが再現される。
 「明治期に民有地化されていましたが、19 22(大正11)年に国の史跡に指定され、オランダからの強い要望もあって、長崎市では1951(昭和26)年度から整備計画に着手しました。長崎市としてもまちづくりの重要な核となることから、1996(平成8)年度から本格的な復元事業を行っています。鎖国期の江戸時代において、オランダを通じて世界を知ることができた歴史的にも重要な場所であり、また出島がいかに狭く閉鎖的
長崎市教育委員会出島復元整備室係長の平俊隆氏
だったかも、復元した町並みを通して体験できますよ。さるく博で、もっと多くの方に来ていただけると期待しています」と長崎市教育委員会出島復元整備室係長の平俊隆氏は語る。
 港町ならではの景観と歴史的背景を生かし、現代的な姿をつくりだしている長崎。古さと新しさがうまく調和した町並みを“さるく”ことで、その深い魅力が実感できることだろう。
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