情報誌「ネルシス」 vol.6 2005

P-14 [CASE02]長崎港の水辺再生(長崎市)
P-26 護岸の風景(青森ベイ・プロムナード/鹿児島本港の歴史的防波堤/アーティストがつくる護岸の風景:中国YiWi South Riverbank)

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目次
勢田川に「海の駅・川の駅」を整備して船参宮を復活みなとを生かすまちづくり
伊勢神宮で有名な伊勢市。
これほどの歴史資産を有しながらも
観光客が激減するという
厳しい時代を乗り越えて
現在、年間600万人の来訪者を迎えている。
観光地の活況を取り戻した伊勢市が
次の式年遷宮*(2013年)に向けて
取り組んでいるのが勢田川の水運によって
かつて“伊勢の台所”として栄えた
「蔵のまち河崎」のまちづくりである。
連なる切妻のシルエットが
映える水面を、美しい木造船が
滑るように走る。
伊勢神宮につながるもう一つの道が復活する。
*式年遷宮とは、伊勢神宮内宮、外宮の社殿を20年ごとに新しく造り替える儀式。この制度は第四十代天武天皇により定められ、次の持統天皇の代から1300年にわたり続いている。社殿は「唯一神明造り」という神宮独特の建築様式で、お米を納める倉を起源とし、礎石のない掘立柱と萱葺き屋根が特徴。第62回の式年遷宮が2013年に予定されており、それまでに遷宮にちなんださまざまな行事が執り行われる。
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80年代、客足が激減した
伊勢市の挑戦
江戸時代に流行した「お伊勢参り」で、全国からたくさんの人が伊勢の地を訪れた。特に1830(文政13)年の「おかげ参り」では400万人の群集が押し寄せたこともあったという。しかし参拝者の宿泊、案内を業としていた御師制度が1871(明治4)年に廃止され、伊勢の経済は徐々に冷えていった。
 戦後はその状況がさらに加速し、1980年代には伊勢神宮内宮門前町の往来者が年間20万人と低迷。危機を感じた地域の人たちが、800mに及ぶ門前町「おはらい町」の町並みを再生。さらにこの通りに本店を構える地元有力企業「赤福」(1707年創業)が、140億円の私費を投じて建設した「おかげ横丁」が1993(平成5)年にオープンした。そうして、一時は年間4万人まで落ち込んだ来訪者が、2002(平成14)年にはおかげ横丁だけで300万人となる。
 「おはらい町」の再生にかかわった当時の企画調整課長で、伊勢商工会議所専務理事を務めた阿形次基氏は振り返って次のように語る。
 「30年前のおはらい町は正月以外に歩いている人の姿はありませんでした。伊勢神宮は20年に一度『式年遷宮』といってお社を造り直すので、伊勢の町はいわば再生する町。ならば伊勢らしい建物の並ぶ町をもう一度つくろう、ということになり、1979(昭和54)年から再生計画がスタートしました。建物は、江戸後期から明治初期の建築様式で、神宮の平入に対して民家は妻入にし、外壁は、風雨の強い伊勢志摩ならではの“きざみ囲い”にしています。おはらい町の『まちなみ保全整備基準』は全部で12項目あり、これは町の人みんなで決めました。地元の強い意識がなかったら、あの町並みは実現しなかったでしょうね。
 いま、おはらい町・おかげ横丁の滞留時間は増えていますが、
今後は泊まり客の増加と交通渋滞対策が課題です。また、町の懐の深さを感じてもらう意味でも、勢田川沿いの河崎や二軒茶屋の整備にも期待しています」
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蔵の町河崎の
保存運動
伊勢市には五十鈴川、勢田川、宮川の3つの川がある。その勢田川の水運で栄えた河崎の本通りには、切妻・きざみ囲いの美しい外壁の蔵が、細い路地・世古を挟んで何棟も立ち並んでいた。しかし輸送手段が車へと変化するなかで、細い道にはトラックが入れず、問屋センター機能そのものが外部転出し、急速にベッドタウン化していった。
 1974(昭和49)年7月7日、集中豪雨により勢田川が氾濫。七夕水害と呼ばれ、伊勢市の60%が水浸しになった。その結果、当時の建設省(現・国土交通省)は300億円の予算を組んで、勢田川の川幅を広げる改修計画を発表し、河崎地区の約90戸が立ち退きの対象となった。このとき、町並みに対する配慮がまったくないこの計画に、多くの住民が反対に立ち上がった。外部からの協力もあり「町を壊さなくても治水はできるはず」と
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対案の検討を続けたが、国の方針は変わらず、1982(昭和57)年に立ち退き工事が始まった。
 しかしこの反対運動のなかで、町のすばらしさを有識者たちから指摘され、自分たちの町のよさを再発見することになる。このとき調査に入ったのが、当時、日本ナショナルトラスト調査団長の藤島亥二郎・東京大学教授、伊勢河崎町並み調査団として西山卯三・京都大学名誉教授、三村浩史・京都大学助教授ら京大グループのほか、奈良女子大学の西村一郎助教授、長崎総合科学大学の片寄俊英教授、全国町並み保存連盟顧問の石川忠臣氏らだった。
 1979年、市民、建築士会および有識者などからなる「伊勢河崎歴史と文化を育てる会」が発足し、町並み保存運動が進んでいく。立ち退き工事で勢田川右岸のほとんどの蔵が取り壊されていたが、それでも昔の商人町の面影が残る蔵が随所に残されていた。1982年に「河崎まちなみ館」を開設し、1985(昭和60)年には伊勢市観光資源保護財団が「河崎町並み案内板」を4基設置するなど、徐々に保存運動が展開していった。

 1997(平成9)年に伊勢市は市民参加型の「都市マスタープラン」を公表。その中で勢田川を「歴史観光交流軸」と位置づけ、特に古い町並みの残る河崎を「歴史文化交流拠点」とし再評価した。河崎の町並み保存はようやく、実態の伴うまちづくりへと展開していく。そして2002年にまちづくりの拠点「伊勢河崎商人館」がオープンする。
 NPO法人伊勢河崎まちづくり衆副理事長を務める村田幸男氏は、当時を振り返ってこう語る。
 「このまちにある蔵をもっと活用していきたいということで、1996(平成8)年より『蔵バンクの会』をつくり、持ち主に働きかけていきました。活用することが保存の最大の武器となると思っていましたから。酒問屋・小川商店さんの土地は600坪の広さで、たくさんの蔵がありました。当主がまちづくりのメンバーだったのですが、あるとき突然、メンバーから退いた。この蔵群を壊してマンションを建てると言うのです。確かに老朽化して

お化け屋敷のようになっていましたからね。しかし小川さんも本当は壊したくはなかったのです。
 そこで、当時市会議員をやっていた私と建設部長とで、伊勢市の都市マスタープランの中に『歴史と観光の交流拠点』という項目があったことをうまく利用できないかと考えました。拠点づくりの予算で小川商店の敷地を市に買い取ってもらおうとしたのです。
 あとの運営はわれわれが独立採算でやるということで、市長を口説きました。土地代と改修で5億円近くかかりましたが、この建物はこの辺りの代表的な商家構造なので、これを残したことによって本通り一帯の価値がぐっと上がりました。拠点づくりに成功したわけです。そしてできた伊勢河崎商人館を運営するために、1999(平成11)年『N PO法人伊勢河崎まちづくり衆』を立ち上げました」
 こうして河崎のまちづくりが本格的に始動する。そして勢田川を生かした古来の「船参宮」が復活するのである。
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「伊勢船型」の復元が
もたらした船参宮の復活
「神社というこの地域は、木造船から始まる造船業や海運業が主で、参宮客の海の玄関口として栄えました。隣の大湊は、豊臣秀吉が朝鮮出兵を企て、九鬼嘉隆に命じた日本丸の建造など、歴史に残る造船技術をもつ地域です。大湊が大きな船を造り、神社では小さな船を造っていました。伝馬船といいまして、機帆船が活躍していた時代に、いわば自転車代わりに使う小さな船です。昔はきちんとした港がなかったので、伝馬船が荷の中積みとして陸と船を行き来したのです」と語るのは、NPO法人神社みなとまち再生グループ理事長の中村清氏だ。
 地域の技術を継承していくためにも木造船を復元したいという思いから、地元の船大工を訪ね歩き、ようやく数人が見つかった。すでに75歳を超える高齢者ばかり。復元作業はすべてビデオに撮り、しっかり記録を残すことにした。船の名前は、2004年アテネオリンピックで金メダルを取った伊勢出身のアスリート・野口みずきさんにちなんで「みずき号」とされた。
 「4人の地元の船大工さんとわれわれで造りました。船をつくる木を探すことから始め、スギとヒノキを3本切りました。伊勢の伝統木造船である『伊勢船型』は洋船と違って竜骨やあばら骨のないつくり方をします。すごい技術ですよ。板図といって、一枚の板に横から見た姿を描くだけです。
船に使われる板はどれ一つとっても平らなものはありません。独特の道具を使って、火であぶって板を曲げ、水をかけて、を繰り返しながら勘でつくっていきます。『みずき号』は伊勢の木造船の最後となるでしょう。宝物だとみんな言っています。木造船の寿命はせいぜい10年。船の乾燥を防ぐために毎日朝夕2回、沖へ行き海水をかけてはかき出して、大切に管理しています」と中村氏。
 現在、神社「海の駅」仮駅舎の2階には、船大工の貴重な道具や模型が丁寧に展示されている。中村氏の船への愛情がここにも表れている。
 せっかく復元された「みずき号」で、かつての船参宮を復元しようと、伊勢市が勢田川の大湊と
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神社の2カ所に「海の駅」、二軒茶屋と河崎の2カ所に「川の駅」を整備した。今は、土・日に1便だけ定期就航し、それ以外は貸切りとなっていて、運航管理を中村氏のNPO法人が受け持っている。現在、法人会員は30人。港まつりや朝市の企画、空き家の活用、郷土資料の収集展示などを行っている。2005年秋には神社の海の駅舎も完成し、本格的な拠点となっていく。
伊勢河崎商人館ができてようやく3年。河崎への年間来訪客は約4万人、うち入館者は1万人程度。
「あまり焦らないようにしたいと思っています。まちづくりは最終的には“人”です。そこに住む人が楽しく生きることが何より大切。今後は、高齢化率が43 %という河崎に、若い人が戻って住めるような環境づくりをしたい」と村田氏。
 伊勢河崎まちづくり衆の活動が奏効してか、大阪や東京からこの土地に移住し、蔵を改造した喫茶店や雑貨屋を開いたりする人も出てきた。また、蔵の雰囲気を生かして伊勢の旨い魚を食べさせてくれる居酒屋が本通りにオープンし、二軒茶屋にも古い蔵を移築した「麦酒蔵」というレトロな
雰囲気の地ビールレストランが登場するなど、徐徐に観光地としての顔ができつつある。
 そして最後に、伊勢の移り変わりを見てきた前出の阿形氏はこう語った。
 「戦後、伊勢は国家神道と結び付けられて敬遠される憂き目に遭いました。しかしここを訪れたブルーノ・タウトは『……伊勢神宮には古代のままの詩と形がいまなお保存されている。ここはヨーロッパ人の言う意味の宗教はない。しかし伊勢神宮に対する崇敬の念を誰が拒み得ようか。……』と日記に書いています。森の中にある建物を見て『桂離宮の前にこれを見るべきだった!ここに日本の原点がある』と言ったそうです。まちづくりは永遠ですね。何を残して何をつくり変えるか。伊勢の文化、心をどう伝えるかがこれからの課題です」
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