情報誌「ネルシス」 vol.6 2005

P-30 港湾・海岸に求められる防災対策…国土交通省港湾局海岸・防災課
P-40 [シリーズ]自然浴環境―5 フランス・アルザス地方のエコ・ミュージアムによる活性化の取り組み……藤本雅生

P32-39
目次
コミュニケーションが町を豊かにする 北斎が紡いだ、うるおいのあるまちづくり
三方を川に、残りの一方を山に囲まれた小布施町は、かつてはこれといった観光資源 のない町だった。
しかし現在では、景観整備と住民参加のまちづくりにより、年間100万人以上の観光客が訪れる活気ある町へと変身を遂げている。
それは「富嶽三十六景」で名高い江戸後期の浮世絵師・葛飾北斎が、この地で作品を残したときから始まっていた。北斎の肉筆画40点余りを展示する日本唯一の美術館の建設を皮切りに、小布施町は外へ向けて目覚ましく発展していく。
それは、2人のカリスマ町長によるリーダーシップと、小布施ならではの町民の気質が導いた結果だった。
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今日の観光資源は
江戸時代に培われていた
長野市に隣接する小布施町。千曲川の肥沃な沖積土、そこに注ぐ松川の酸性土壌、水はけのよい扇状地、そして朝晩の気温の差など気候風土に恵まれ、リンゴやブドウ、モモなど、豊かな果実の産地としても知られている。なかでも有名な「小布施の栗」は、もともと江戸時代に治水のために植林されたものだが、偶然にも松川が酸性土壌であったため上質な栗が栽培できた。そのおいしさは幕府への献上品となったほど。そんな農業主体の町であった小布施町が、現在では年間100万人以上の観光客が訪れる活気ある町へと変身を遂げるきっかけとなったのが、1976年に建設された「北斎館」であった。日本で唯一、葛飾
北斎の肉筆画が展示されており、所有数は肉筆画のほか版画なども含め数百点にも上るとあって、全国のマスコミに取り上げられ、小布施の名は一躍有名になった。
 「それまで観光客なんていませんでした。そのころ、モスクワや北京で北斎展が開催され、世界的に北斎が注目されるようになり、貴重な作品を町民共有の財産として後世に残そうとしたことが開館のきっかけです」と、小布施町地域創生部門まちづくりグループの小林賢一さんは語る。
 しかし、こんな小さな田舎町になぜ北斎の作品が大量に残っていたのか。それは江戸時代にさかのぼる。小布施に高井鴻山という人物がいた。地元の豪商の家に生まれた鴻山は、若くして京都と江戸に遊学し、そのとき多くの文化人と出会う。
その後、彼らは小布施に帰った鴻山の元を訪れるようになり、そのなかの一人に北斎がいたのである。再会は鴻山37歳、北斎83歳のときのこと。以後、鴻山は北斎のパトロンとなりアトリエを提供する。北斎は度々、小布施を訪れ多くの作品を描き上げ、そのなかには北斎館の目玉となっている2台の祭屋台の天井絵「龍図」「怒涛図」も残されている。
うるおいのある美しい町は
町民の手で
北斎館開館から5年後の1981年、町は「緑と水と歴史の町、暮らしに文化が息づく町、特色ある産業の町、そこに生きる喜びと誇りを感じる町」をコンセプトに第二次小布施町総合計画を策定。翌年には周辺住民から、
北斎館や老舗の栗菓子店、大壁造りの民家などが立ち並び、歴史的な景観を留めている高井鴻山記念館「ゆう然楼」周辺は地域の特性を生かした町並みづくりを進めるべきとの提案があり、1984年から関係者5人が協定を結び、3年かけて「町並修景事業」を実施した。民家を移転させ広がりのあるスペースを確保したり、特産のクリの角材を敷いた「栗の小径」をつくるなど、約16000m2の空間を地域の特性を生かした町並みに再編したのである。 これがきっかけとなり1986年には、小布施町の総合計画後期基本計画に、住まい・町並みづくりのガイドライン「うるおいのある美しいまち環境デザイン協力基準」が設けられる。そしてこのことから、北斎の天井絵で有名な岩松院がある「岩松院ふるさと
ゾーン」、町の玄関である駅周辺の「駅前さわやかゾーン」の整備へと進展していった。
 「住民と行政が互いに協力し合い、それぞれ役割分担して古いものを生かしながら新しいものをつくるこの取り組みは、一つのモデル事業として建築の分野でも注目され ました」と小林さんが語るこの事業は、周辺の店舗や住宅にも及び、例えば屋根は陸屋根ではなく切妻に、看板や街灯は趣のあるデザインに付け替えるなど、住民による自発的なまちづくりの輪を広げる起爆剤にもなった。さらにこの勢いは町全体に広がり、1987年には建設省(当時)の指定を受け、「うるおいのある美しいまち環境デザイン協力基準」を具体化させた「地域住宅計画(ホープ計画)」を策定。歴史、
風土を生かしたまちづくりを町全体にわたって行おうと、建物の形式 、色彩、素材などについて、中心市街地、農村集落、新興住宅地の地域ごとに誘導指針を示し、小布施町をうるおいのある美しい町へとつくりあげていった。実際、小布施の町を歩いてみると、落ち着いた色合いの日本家屋と整備された歩道、花の咲き誇る軒先などが、まわりの自然と調和し気持ちを和ませてくれる。
 「外は人の目が触れるので快適な空間に、内は自分たちのもの、というのが小布施に暮らす人々の意識にあります」と小林さん。このような小布施町民によるまちづくりは、自治大臣表彰(1986年)、建設大臣表彰(1988年)、都市景観大賞、農林水産大臣表彰(1994年)、内閣総理大臣表彰(1998年)
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など数々の賞に選ばれ、全国的にも高い評価を得ている。
 今後は景観だけでなく、産業・学校・住民・行政が情報を共有することで新たなまちづくりや交流産業の育成に取り組んでいくという。実際に2005年7月には東京理科大学建築学科の「まちづくり研究所」を町役場内に開設。また、地元信州大学の人文学部や農学部とも交流の輪を広げ、福祉や教育の一層の充実のほか、小布施ならではの「6次産業」の振興にも力を注いでいくそうだ。
積極的に町を運営する
さまざまなシステム
小布施町のもう一つの顔。それは「花のあるまちづくり」。1980年、住民の日常生活にうるおいのある環境を提供しようと、町内自治会単位で行った美化運動は、公共花壇づくりから始まり、その後120人以上の研修生を海外視察に送り出した「ヨーロッパ花と景観の研修交流事業」や、町による各地域・家庭・花壇の3部門を対象としたフラワーコンクールの開催へと発展していった。
 官民一体となったこの取り組みは、町民の「ガーデニングによる美しいまちづくり」という意識をさらに高めていき、町もこれに
雇用の場をつくりだす“創業”産業を目指している。
 また、まちづくりの第3セクター「ア・ラ・小布施」も一味違った活動を行っている。資本金2600万円のうち町の出資は4%、あとは民間出資者54人からなる民間主導の町おこしの株式会社だ。しかも配当は行わず、利益は地域の活動費に充て地域を活性化させることが見返りという、その志がさらに町を発展させる仕組みとなっている。現職の市村良三町長が、商工会地域振興部部長だった1993年に中心となって立ち上げ、町おこしのためのイベントや観光事業などを行い、2001年には、国土交通省による観光カリスマ百選に認定された取り組みだ。「a・la」とはフランス語で「〜風、〜流」の意味。どこかの真似ではなく小布施独自の方法で経営、文化活動を行っていこうという決意を込めてア・ラ・小布施と称し、観光情報を提供するガイドセンターや土蔵を改造したゲストハウス、喫茶・特産品の販売、小布施駅併設のコミュニティスペース、映画祭などの企画、運営と、幅広い活動を行っている。
 ア・ラ・小布施で運営活動を行っているスタッフの関悦子さんはこう話す。「今年で6回目を迎える小布施国際音楽祭はすごいですよ。野外音楽堂ができたとき、
町から何かやってくれないかと言われて始めた企画ですが、国内外から一流の音楽家を招き素晴らしい演奏を聴くことができます。昨年は4000人もの来場者がありました。この小さな町でこれだけの音楽祭が開かれるなんて、なかなか想像できないと思います。ア・ラ・小布施のキーワードは“交流”。外からの刺激を受けることで、地域に住む人の意識改革の場となり、小布施を訪れた人の拠点にもなる。かつて鴻山と北斎が出会ったことで重奏文化ができあがったように、これからも外との交流で変わらざるを得ないし、なおかつそれでも変わらぬ文化がまちづくりには必要だと思っています。それには行政・民間・専門家が協力し合った仕掛けづくりも大切。
観光カリスマ百選:国土交通省による観光政策。従来型の個性のない観光地が低迷するなか、各地で観光振興にがんばる人を育てていくため、その先達となる人々を『観光カリスマ百選』として選定した。また、その人たちの類まれな努力を学ぶことによって、各観光地の魅力を高めることも目指した。2005年3月の時点で観光カリスマ選定者が100人に達したため選定は終了している。
http://www.mlit.go.jp/
sogoseisaku/kanko/top.htm
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例えば、盆栽美術館「大観」の館長である鈴木伸二さんは世界で活躍している盆栽家で、モナコをはじめヨーロッパやアメリカなど各国の展示会に招かれ、海外でとても人気があります。でも、日本人にとって盆栽って地味なイメージがあり、それほど注目されていません。こんなにすごい人が小布施で作品をつくっているのに。もっとそのことに気づいてほしい。これからは海外からも多くの人が訪ねてくるような町にし、海外の人の視点で小布施のよさを再認識してもらえたら、また新しい広がりができると思うんです」
訪れる人を快く迎える、
季節の花々が咲き誇る
オープンガーデン
小布施町のもう一つの顔。それは「花のあるまちづくり」。1980年、住民の日常生活にうるおいのある環境を提供しようと、町内自治会単位で行った美化運動は、公共花壇づくりから始まり、その後120人以上の研修生を海外視察に送り出した「ヨーロッパ花と景観の研修交流事業」や、町による各地域・家庭・花壇の3部門を対象としたフラワーコンクールの開催へと発展していった。
 官民一体となったこの取り組みは、町民の「ガーデニングによる美しいまちづくり」という意識をさらに高めていき、町もこれに
応えるべく1992年には「フローラルガーデンおぶせ」を開園。15000m2の敷地に季節の花々が一面に咲き誇る同施設は、観光名所として、また住民への園芸指導や花苗生産施設「おぶせフラワーセンター」と連携させることで、花の情報発信基地としての役割も果たしている。そして2000年には自宅の庭などを一般に公開する「オープンガーデン」がスタート。現在、その庭は60カ所以上にもなり、新しい観光の目玉としても注目されている。
 「多くの人に見てもらうことは、庭づくりの張り合いになります」と話してくれたのはオープンガーデンの参加者の一人、関谷つき子さん。5月から6月にかけては、自宅の庭に20種類余り、50本以上のバラが見事に咲き誇る。以前は団地住まいだった関谷さんは12年前に新築したのを機にガーデニングを始め、オープンガーデンには当初からメンバーとして参加している。芝張りから、敷石の施工、雨水利用のシステムまで、庭に関することはすべてをご主人と2人で行うという本格派だ。ときどきは仲の良い友人4、5人と集まって情報交換もする。
 「町から補助金が出るわけではないのですが、皆、花好きが高じてやっているんです。毎日開放しておかなくては、なんて気負わず、草刈りの日はクローズする
などマイペースでできることが、長く続けられる秘訣ではないでしょうか」と関谷さん。
 庭のスタイルに決まりはなく、イギリス風や日本庭園、ロックガーデン、紅葉が楽しめる庭などさまざま。オープンガーデンになっている庭には、花のキャラクターをあしらった案内板が掛かっていて、気に入った庭を予約なしで自由に見学できる。
 2001年には、市村町長と時を同じくして、これらの取り組みを主導した唐沢彦三前町長も「人と花の輝くまちづくりカリスマ」として観光カリスマ百選に選定された。唐沢さんは長年にわたり町役場で要職を歴任した後、1989年に町長に就任。以来、町民が主役となるべく「単なる観光振興ではなく、町と住民が連携した、住民の視点に立ったまちづくり」をモットーに、その優れた主導力で、農業主体の町から年間100万人以上もの人が訪れる今日の小布施町へと導いた。この2人のカリスマによって小布施町は全国的にも優れた観光地として、訪れる多くの人々を魅了することとなったのだ。
小布施発。世界に認められた
自社栽培・醸造ワイン
「世界で認められるということは日本人というアイデンティティを持ったワインでなくてはなりません。
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ワインにストーリーを持たせ、日本のワイン造りのスタイルを確立することです」と語るのは小布施ワイナリーの若社長・曽我彰彦さん。自社栽培のブドウや国産ブドウを100%使ったワインを醸造し、国際コンクールで金、銀、銅と数々の賞を受賞している実力派のワイナリーだ。
 小布施ワイナリーは、もともと江戸時代末期から続く日本酒の造り酒屋だったが、第二次大戦の影響で人手と米が不足し、特産のリンゴを使った果実酒へと、転換を余儀なくされる。その後、清酒を復活させ日本酒とアップルワインの両方を醸造するようになるが、時代の流れとともにワインが一般家庭にも普及したことから、モモやブドウなど地元特産の果実を使ってフルーツワインを造るようになっていった。現在、小布施をはじめとした国産ブドウのみで造ったワインとリンゴの発泡酒・シードルを醸造している。そして栽培醸造責任者としてワイン造りを一手に引き受けている彰彦さんは四代目。当然のことのようにワイン造りを学ぶため山梨大学大学院に進んだ彰彦さんだったが、「それまで父親のワインが一番だと思っていたのに、素晴らしいワインがほかにあったんです」と、そこから本格的なワイン造りへと目覚めていく。
卒業後、ワインの本場であるフランスのブルゴーニュへ渡り、ワイナリーで修行。しかし約2年半後、小布施で醸造を担っていた祖父が病気になったため急きょ帰国し、家業を継ぐこととなった。そして小布施の地でヨーロッパ品種のブドウを栽培してのワイン造りが始まった。
 「ワインに適したブドウを栽培するには水はけがよく、栄養があまりないカラカラした土地のほうがいいのです。小布施は寒暖の差があり、乾燥していてブルゴーニュに似た気候だったのが幸いしました。うちは本当に小さなワイナリーですが、上質なワインを造るには小さな仕込みでないとおいしくならない。量が少ないほどおいしく品質が上がります。そして、他では当たり前のこととしてやっている輸入ワインを混ぜて造ること、これは決してしません。小布施で栽培したブドウと、それだけではどうしても足りないので長野県を中心とした国産のブドウを使って造ることにこだわっています」と彰彦さん。
 最初は5haの畑を開拓することから始め、今ではカベルネ・ソービニョン、メルロー、シャルドネ、シラーなどの品種をフランスと同じ垣根仕立て栽培し、5人のスタッフでみている。特にシャルドネは小布施の気候に合うらしく、
2001年のリュブリアナ国際ワインコンクールで金メダルを受賞したほど、素晴らしい出来となっている。
 「自分が生まれた場所がたまたま小布施だった。そこが偶然にもブドウの産地だったのがラッキーでした。今後、小布施が世界で認められるようになるために、より多くの仲間となる人たちを誘致してもらいたいですね。前向きでまじめで体力があってという人たちを呼んで、ワインの産地になればいいと思っています。時代はオーガニックワインへと向かっています。目指しているワインはヨーロッパスタイルより繊細でナチュラルな味わい。名前でなく原材料と品質を見極めたお客さまが来てこそ本来の姿。そこから本当の“小布施ブランド”がついてくるんです。ブランドになるまでは自分の代では難しいかもしれませんが、つくった畑だけは次の世代へつなげていきたい」
 まだ三十代の彰彦さん、小布施のこれからを新しいかたちで飛躍させていく一人かもしれない。
境内にアート。
昔からお寺は情報発信地
小布施町の南西に位置する玄照寺は今から400年以上も昔、天正年間(1573〜1591年)に
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開創された歴史あるお寺。二十三世にあたる住職の葦澤義文さんは、この境内で2004年から「境内アート」なるイベントを催している。
 「私の父親はいろいろなことに興味を持つ性格で、1960年に地域振興のためにと境内で苗市を始めたんです。これまで毎年4月に開催してきたのですが、一時期に比べると客足が減ってしまい、新たにこの境内でアートをやろうと考えつきました」と葦澤さん。第2回を迎えた2005年の境内アートでは41人の作家が全国から参加し、現代アートや絵画、版画、陶芸、写真、彫刻、染織、ガラスなど数多くの作品を並べ販売した。ほかにも沖縄出身のミュージシャンによるライブや骨董市なども開かれ、参道のみならず山門、本堂、座禅道場、裏庭と寺全体がイベント会場と化し、当日は多くの人でにぎわった。
 「自分自身もワイワイするのが好きなんです。何かするのは、
寺にもっと人が来て欲しいから。さまざまな人たちが来て交流することで出会いの場になればいいと思います。そこからさらなる広がりができるからね。観光客が行く場所は決まっているから、寺でイベントをして人を集め、そこから分散させる。寺が拠点となってより広範囲に行動してもらえれば、もっと小布施を楽しんでもらえるんじゃないかな」。葦澤さんは、ほかにも知的障害者の福祉施設「くりのみ園」の理事長を務めるなど、積極的に活動している。
 小布施町に根ざしながらも常に外へ目を向け、新しいことをキャッチし行動していく。小布施町で暮らす人々のこうした人柄が、昔を生かした“今日のまちづくり”を支えているのかもしれない。
小布施町に関する詳しい情報は
小布施町役場ホームページまで。
http://www.town.obuse.nagano.jp/
上信越道と一般道を結ぶハイウェイオアシス小布施総合公園
「ハイウェイオアシス小布施総合公園」は、高速道路である上信越自動車道と一般道の両方からアクセスできるようになっている。上信越自動車道からは小布施パーキングエリアへ、一般道からは道の駅へそれぞれ車を乗り入れ、そこから直結している総合公園を散策できる。小布施町では「オアシス構想」のもと、訪れた人々の憩いの場になるようステージづくりに努めており、緑に囲まれた広い園内には美術館やレストランも点在する。また、車を置いて町内を回れるシャトルバス「おぶせ浪漫号」も運行している。
町長インタビュー
小布施町 市村良三町長
新しい可能性を探りさらに素晴らしい小布施町を目指す
小布施町 市村良三町長

町全体の魅力を知ってもらうために
小布施町には魅力的な場所がたくさんあるが、訪れる人の多くが北斎館を中心に回っているので、もっと町全体に来ていただき、違ったよさを感じてもらいたい。これからは、そのためのツールをつくっていくつもりです。取り組みとしては、オープンガーデンや民泊、主体産業である農業でつくった農産物を直接買ってもらう交流産業を推進していく。時間がかかってもかまわないので、何度か来て、親戚を訪ねる感覚で、そこから信頼してもらい交流を深めていこうという方向です。そこで私がいま考えているのが、ワイナリーを軸として農村レストランをつくるということ。レストランに隣接してそこで使っている地元の農産物売場も設ける。しかもセンスのいい雰囲気にして。これまでの行政と民間の差は何かといえば、センスです。それこそお客様が求めている大切なことなのです。
時代の流れに合わせて変化していく
いいか悪いかは別として、温暖化により農産物の適地が変わり、以前と異なってワイン用ブドウがよく育つようになりました。巨峰といったブドウやリンゴが主流なわけですが、農産物の適地が変わってきているということは、ほかの作物の可能性を探す時期
ではないかと思っているんです。そして次は野菜ではないかと。当然、実験が必要となってきますが、今の小布施に合った新しい野菜があるはずです。例えば「京野菜」のように「小布施ブランド」という特殊野菜を手がけていきたい。まず、6次産業センターで実験野菜のひな型づくりをし、うまくいったら農家へ推奨していく。既存のものを残しつつ、新しいことを生み出していく必要があります。
大学の研究室と共同で小布施ブランドを確立
小布施町では振興公社を活用するとともに、大学の研究所を町に設け、共同のまちづくりに参画してもらっています。現在、東京理科大学建築学科の研究所が役場の中にあります。また、長野県には信州ブランド戦略というチームがあり、私も去年から参加しているのですが、一つのモデルとして大学との共同参画を挙げたところ、これを第1号の戦略にしようということになりました。そして、さらなるブランド磨きという見地から信州大学の人文学部と農学部に絡んでいただけることになったのです。今までは「クリ」「北斎」「花」が小布施を語るキャッチフレーズでしたが、次の一手で、新たな小布施ブランドを確立していきたいと考えています。
●プロフィール●
1973年ソニー株式会社入社。1980年株式会社小布施堂入社。町並修景事業をはじめ、さまざまなまちづくり運動を展開。1994年第3セクターである株式会社ア・ラ・小布施を設立。2005年1月に小布施町長に就任。優れた感性で時代を読み取り、レベルの高いまちづくりを展開している。57歳。
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