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p16-19
情報誌「ネルシス」 vol.8 2007
P16-19
2002年ごろより、それまでの郊外化、ドーナツ化現象から一転、都心回帰現象が始まっている。
東京の中央区では2000年からの5年間で約35%の人口増加を記録。大阪の中央区でも同じ5年間で21%増となっている。高密な都市居住を快適にする新しいまちの姿とは。
また、どんな仕掛けがまちを楽しくするか。都市間競争の時代のまちづくりについて、
次代を担う世代のおふたりに語っていただいた。
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り
始
め
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景
橋爪
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最近強く思うのが、20世紀的な産業都市のあり方に対して、違う形で都市の理想を語る傾向が出てきたということです。以前は日本でも、アメリカの大都会のように、高層ビルが林立するオフィス街を中心とした都市を計画することが善しとされてきたと思います。1920年代には日本でもすでに、都心を意味する「ビジネスセンター」、あるいは「ラッシュアワー」という外来語が使われ始めています。以後、今日にいたるまで、一方で郊外は工場地帯や住宅地として開発していく。空間を分けて計画していくことが続いてきました。
上●大阪ミナミにあるグリコの看板は道頓堀を象徴する顔。今年は第11回IAAF世界陸上2007大阪のユニフォーム姿に 写真:石井雅義
下(2点)●第4回銀座スペースデザイン・学生コンペで、ギンザ・コマツ賞を受賞した「ENERGY」。制作:中森麻未・滝口星美(武蔵野美術大学)、写真:田代衛司
しかし、人口が減少に向かうことを前提に、地方ではコンパクトシティが提唱されました。また大都会では超高層マンションが建ち、都心部に住む人が増えてきた。仕事・住まう・遊ぶというさまざまな機能が交じり合った本来のまちの姿を志向する界隈が、都心部にも出てきたように思います。20世紀は国家の時代であり、21世紀は都市の時代です。20世紀はどの国も同じような近代化を目指し、国土の都市化をはかってきましたが、21世紀はそれぞれの都市が個性をのばしていく時代といえるでしょう。
私の故郷である大阪のミナミは、高度成長期に多くの住人が郊外へ移転し、まちが空洞化してしまいました。
しかし私たちが子どものころまでは、仕事場と住まいがひとつになって随所にコミュニティができていた。それが崩れたことは、中心部が寂れた大きな要因だと思います。
竹沢
●
銀座も以前は1階で商いをし、裏や上に商店主が住んでいましたが、いま彼らの住まいは港区、世田谷区、大田区あたりにあります。でもいつか銀座に戻ってきたいと思っている人も多いようです。ところが、いまの銀座は、例えばヒルズ族のようなベンチャー企業の成功者でなければ家賃が払えないほど地価が高くなっています。小さなマンションに入居するのはオフィスとして利用する人がほとんどなのが現状です。
そんなことで、銀座では単純に住宅を増やすことには消極的です。江戸時代のように大家がいて店子の人生相談まで請け負うような管理の仕組みができていればいいのですが、セキュリティのためとはいえ、オートロックで閉ざされたマンションがいくらできても、まちに根ざす人はそこに住まないともいえますね。
橋爪
●
それは日本の住宅全体の課題で、住んでいる人が公共への意識をもって住んでいるかというとそうではない。日本の場合、住宅は不動産で、まちとの関係をあまり考えないマンションの形になっていますね。
竹沢
●
近ごろは個人情報保護法で情報が提供されず、
町会が名簿をつくれないでいます。新しくマンションができても住人の顔が見えず、中で何をされてもわからない。
橋爪
●
これまでそういった部分を補完してきたのが共用スペースでしたね。古くはまちの会所だったり、あるいは近所の飲み屋や喫茶店であったり、そこに行けば顔見知りが必ずいるというサロンのような場所です。そういう、地域に根ざした活動が行われる拠点があった。私は大阪の都心でまちづくりNPOのプラットフォームをつくる活動を重ねてきました。そのねらいは、まず第一に、顔見知りになれる場をつくりたいという思いからです。「現代の会所」をつくるべきだと考えています。
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地
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橋爪
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私は大資本による面的な再開発を否定するものではありませんが、それ以上に、まちなかのあちらこちらに楽しい拠点や界隈ができてきて、エリア全体の魅力を向上させるという動きが必要だと思っています。昨年出した『大阪のひきだし』(鹿島出版会)という本では、大阪の船場などで、そういうことに気づいた人たちが始めた、ささやかなひとりひとりの「もうひとつの都市再生」を紹介したものです。「言い出したものが最後までやる」という大阪の気風もあり、まずは事を起こしてみようという勢いがあります。
年配者も若い連中のやることを懐深く見守る姿勢で、組織や制度や前例よりも、言い出した人物の人柄で応援するようなところがありますね。
大阪で私が感じている危機感のひとつは、ストリートを単位とした都心独特の個性が薄れている点です。例えば道修町は、武田製薬やシオノギ製薬をはじめとする製薬会社が集中する薬のまちでした。久太郎町や久宝寺町は雑貨や繊維の問屋が多い。そういう同業者同士が集まるまちは、そもそもは城下町にさかのぼる町家の伝統を受け継ぐものであり、日本の都心を構成する大切なユニットであったと思う。それが産業構造の変化や流通の変化で、
経済に由来するコミュニティも崩れてきた。結果として、空いたところに駐車場やマンションが入ってきた。低層階が店舗だったらまだいいのですが、通りの店の並びを分断するような形でマンションが入ってくる。道に面して、商いの場が連続しているという構成が崩れてしまったように思います。
大阪の三休橋筋では、大阪ガスの30周年記念事業に加えて、地域の商人が寄贈する形で、通りにガス灯を設置しました。地元商店会と行政も協力してくれています。国の重要文化財である綿業会館のような歴史的建造物もある通りなので、とてもいい雰囲気になりました。大阪の都心である
船場地区は昔から、東西方向の道がそれぞれ同業者街としての個性をもっていました。それを南北に貫いている三休橋筋は、もともとなんの個性もない通りでしたが、新たに個性をもった通りができることで、界隈に回遊性が出てくるのではないかと思っています。
竹沢
●
銀座は、地元の人たちが町会や通り会を集めて2001年に「全銀座会」という組織をつくりました。2004年には、全銀座会をベースに「銀座街づくり会議」というまちづくり組織も立ち上げました。銀座6丁目の松坂屋と森ビルが2ブロックにわたって超高層ビルに建て替えるという大規模再開発案を提案してきたことをきっかけに
「銀座にふさわしい開発とは何か」という課題に取り組んでいくことになりました。地区計画をみんなで見直していきながら、顔の見えるまち、お互いあいさつができることの大切さ、「銀ブラ」の重要性、などに、通り会の人たちが気づいていった。当初、ほかの丁目の人は6丁目のことには関心がなかったのですが、これは全銀座の問題だ、というように変化していったのです。また、これをきっかけにまちについて勉強するようになりました。シンポジウムを何度も開きながら地区計画を改正し、建物の高さや容積率、壁面後退など、大きな骨格を決めていきました。
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改正の結果、銀座地区の建物高さ制限は56m、ただし旧木挽町地区では「文化」に寄与すれば高い建物を建ててもいいことになりましたが、では「文化」とは何かという次の課題が浮上してきました。
以前銀座では「大銀座まつり」という大きなお祭りをやっていたのですが、2000年にそれをやめたあとは、
大きなイベントを年に一度どんとやるよりも小さな仕掛けがたくさんあったほうが銀座らしいのではないか、という考え方になっているように思います。文化的な質の高いイベントが、銀座じゅうで行われているほうがいいんじゃないか、という意見が主流になってきたのです。毎年秋に行われている催事「プロムナード銀座」は、大手代理店を排して、地元が手作りでやっています。秋だけでなく年間のイベントを催事委員会が把握して、集約していく。イベントの内容も、一日に集中して何万もの人が来るというよりは、継続的に来てくれるようなものにするという方向になっています。
そのなかで、銀座通りだけをメインにしたイベントではなく、各通りや路地の魅力を再認識するようになりました。「大銀座まつり」をやめたのは今となっては英断でしたね。
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橋爪
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都市の文化とは何かと考えますと、二つの面があると思います。ひとつは文化を継承していく装置としての都市。地域の歴史やそこで生まれたさまざまな活動や出来事を記憶し記録して、次の世代に受け継ぐような場所が都市だという考え方。もうひとつは、都市は文化の忘却装置であるという
側面。都市にはいろんな人が出入りして、時代によって流行や担い手も変わります。流行の事柄をどんどん忘れていくからこそ、新しい文化が生まれてくるという考え方です。実はそのどちらの面もあるといえます。例えば銀座はまさに消費の場であり、流行発信の場ですから、絶えず新しいものをつくるためには何かをどんどん忘却をしていかなければいけない。けれど伝統的に忘れてはいけないまちの個性や由緒、場所の物語もある。その読み方や、組み合わせ方をどう考えるのか、というのが問題なのだと思います。
銀座の伝統のひとつにショーウインドーがあります。
優れたクリエーターたちがウインドーディスプレイを競って、これほど集まっているまちというのは、日本ではほかにはないでしょう。20年、30年たってウインドーそのものはすっかり変わっているかもしれないけれど、日本におけるディスプレイのメッカであるという本質は継承していくという点が大事ですよね。
竹沢
●
おもしろいのは、ショーウインドーはレンガ街の列柱の間にできたという話です。レンガ街は近代黎明期の象徴で、その歴史のなかで生まれてきたのがショーウインドーであり、その中の作品は常に更新されて残らない。まさに銀座らしい話です。そこで、この
ショーウインドーに着目して「まちが人を育てる」ためのイベントを行っています。
最初の橋爪さんのお話にあったように、都市空間はどんどん分けられて、工場や住宅同様、大学も郊外へ移転していきました。学生のころは、まちで雑踏にもまれながら学ぶことも多いと思うのですが、まちに学生が来なくなってしまった。銀座にも若い人が来なくなっています。例えば八王子にある東京造形大学から銀座へ出るのに3時間くらいかかるのです。若い人は町田や吉祥寺あたりで遊んでいるようです。学生が都心を知らない。都会でつっぱって、いろんな経験をしたり
新しいものを見たり、社会に直接触れて大人になるというプロセスがなくなっている。
一方、まちのほうは若い人に来てほしい。情報が入ってきますからね。そこで、銀座は画廊が多いことから、美大生を中心にした銀座アート・エクステンションスクールを2002年に立ち上げました。学生たちに、銀座の街の活性化にひと役買ってもおうという活動です。また彼らにも、銀座というまちからいろいろな刺激を受けてもらいたい。具体的には6つの美術大学(女子美術大学、多摩美術大学、東京工芸大学、東京造形大学、日本大学芸術学部、武蔵野美術大学)による
「銀座スペースデザイン学生コンペティション」を実施し、銀座の企業のショーウインドー空間をデザインしてもらいました。そして参加企業の協力により、受賞作品は実際のショーウインドーで実現させていただきます。そのプロセスで、学生たちは社会に触れ、数カ月でぐんと成長していきます。そういう「まちが人を育てる仕組み」をもっているというのは大切なのではないでしょうか。銀座にかかわった彼らは、きっと大人になってまた銀座に来るでしょうしね。そして自分が実現したお店で買物してくれますよ。実はそれがねらいです(笑)。新しいまちのファンになってくれる。
橋爪
●
大阪で有名なアメリカ村は70年代にできた若者のまちですが、もともと商店街のはずれにあるバックヤードでした。倉庫でアルバイトをしている若い子たちの集まる喫茶店が界隈にあって、そこにたむろしていた誰かが、アメリカに行って古着を仕入れ、倉庫の前で売りたいと言いだした。そしてそれを認めた大人たちがいた。また、近くの三角公園と呼ばれる児童公園では、若者たちがライブをやったりしていた。従来なら近隣はやかましいといって排除するのですが、自由な活動を受け入れる気分があって、放置していた。そうして結果的に、若者文化を基幹とする
いまでも若者でにぎわう大阪のアメリカ村周辺
新しいまちが生まれた。その後は賃料も上がり、店のオーナーも年齢が高くなるので、大人の街になるのかと思っていましたが、結局いまだに十代のまちなんですね。大阪の十代の若者はアメリカ村で過ごし、ある時期に卒業して違う界隈を本拠地にするという状況が、30年ほど続いています。ある界隈を自分たちの本拠地だと思う時期があり、そしていつか「卒業する」というニュアンスがおもしろいですね。
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橋爪
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銀座を支えている人たちの暮らしぶりが、かつては見えたけど、いまは見えない。かつての社用族が減り、客の質も変わってきているのではないでしょうか。銀座らしい時間の使い方や楽しみ方、まち歩きの仕方を、新たに提案できているのかどうか。ドレスコードも含めて、界隈ごとの振る舞いやライフスタイルが銀座にもあるのでしょうが、それが80年代あたりからどんどん崩れていったのかもしれない。
しかし東京を見ていると、銀座、渋谷、池袋、六本木、三軒茶屋、自由が丘、下北沢、青山、秋葉原、裏原宿など、
まだまだ個性や魅力がある場所と、その街を本拠地とする人たちがきちんと分かれているように思います。大阪はエリアが分かれているようで、そうでもない。東京は、銀座と浅草とでは明らかに違いますよね。盛り場論でいわれるのは、懐かしさを感じる盛り場と、流行りを先取りする盛り場があり、大阪ではそれがエリアとして混在しているのです。大正期などには大阪の民衆娯楽について、「ピアノの演奏を聴くような店でどんぶりを食べるな!」といったニュアンスの評価がありました(笑)。
大阪の心斎橋はかつて、よそ行きの服を着ていくところでしたが、100円ショップができ、
ゲームセンターができて、普段着で歩ける場所になってしまった。その一方で、すぐ近くの長堀にはブランドの路面店が立ち並び、それまでどこにいたんだろうと思われるブランド品をまとったマダムたちが現れて、界隈の新しい顧客になっている。
竹沢
●
いまもエリアは分かれていないのですか?
橋爪
●
例えばミナミと呼ばれる盛り場の場合、アメリカ村、道頓堀、千日前、長堀、南船場、堀江、心斎橋、難波といった違う層を顧客とする盛り場が徒歩圏内にあります。もっとも、最近は新しい商業施設ができてきて、少しセグメントされてきてはいるようです。
そこにふさわしくない人たちは行かなくなりますから。
竹沢
●
それはいいことなんでしょうか。
橋爪
●
商業というのはそうやって競争していくわけです。大阪の場合、新しい商業施設が大阪駅を中心とした界隈、いわゆるキタに次々と計画されている。一極に集中しそうな動きに対して、ほかの商業地が対抗策を講じています。東京はどうですか?先日ミッドタウンに行ったら、大阪弁でしゃべっている人がやたらにいたような印象でしたが。
竹沢
●
東京はセグメントされているというより、都市が
分散していますよね。町田や八王子のほうまで広がっている一方で、ミッドタウンや六本木ヒルズは街の中に街をつくっているようなものです。ミッドタウンを一歩出ると、いつものように二日酔いで疲れた感じの六本木のまちが広がっていて、何も変わっていないのです。ああいうものをつくっても、まちは変わらない。しかもミッドタウンと六本木ヒルズはいまだ点でしかなく、面的にはつながっていないので、まちとしての魅力は感じませんね。
橋爪
●
そうですね。おそらく後背地との関係が重要なのかもしれません。渋谷のビットバレーや青山が後背地として
あったから、その頂点としてのヒルズが成立した。それに対して新丸ビルもミッドタウンも、いまのところ観光地の様相ですから。これからどうなるかですね。
ま
ち
の
顔
を
つ
く
る
竹沢
●
先ほど橋爪さんが、これからはストリートだとおっしゃったのは、そのとおりだと思います。歩いて楽しい、風景が変わっていく、人の意識のなかでは、行政区分ではなく、通りがまちなんですよね。全銀座会も通り会がしっかりしています。角に位置している商店は、二つの通り会と町会の3つに所属していて、それぞれの会合に顔を出すのも大変です。
ですが複数の会に顔を出す彼らは、キーマンになることも多い。角地に出店するには覚悟が必要ですね。
橋爪
●
まちの人が楽しそうで、誰もが自分が暮らすまちが大好きで、使いこなしているところって、観光客から見ても魅力的です。ヨーロッパの街に行くと、地元の人が広場でお茶を飲み、散歩している風景は、外から来た人にも実になごんで心地よく映ります。アジアの街も同様で、屋台で盛り上がっている現地の人の姿を観光客が見て楽しむというところがある。日常的な界隈を、自分たちで使いこなしているということが大切です。この場所はみんなの
場所だけど、自分にとっても大事な場所だという思いを集めることだと思います。
竹沢
●
銀座のある店主が、店の前の通りに立っていて、知った顔が来ると「やあ」とあいさつする、そういうまちがいいんだ、ビルの中には入りたくないと言って、ビルの高層化に反対しました。彼にとっては通りに自分が立っていることが大切だったのです。
橋爪
●
地域の人同士、それ以上に地域の人と来街者とをつなぐ役割をしている人が大切ですね。加えて、まちの顔となる景観や、シンボルとなる待ち合わせ場所のような点景が必要だと思いますが。
銀座はショーウインドーをつくらないと出店できない、というような規制はないのですか?
竹沢
●
それはないですが、にぎわいは連続させるようにお願いしています。昨年、銀座にデザイン協議会という仕組みができましたが、そのきっかけになる出来事があったのです。ある有名なアーティストが、銀座通りに建物をつくろうと
したのですが、30mの間に開口部が一つしかない。これでは銀座通りのにぎわいが途切れてしまいます。それを伝えて、デザインを変えていただきました。
銀座は「銀ブラ」という言葉があるように、歩く楽しみのあるまちです。そこにショーウィンドーのような店の顔があり、通りに店主が立っていて、人の顔が見える。それが連続してにぎわいやコミュニケーションの場をつくり出している。それが銀座の魅力だと思うのです。まちを楽しくするいろいろな仕掛けも、そこを原点としたいですね。
橋爪
●
流行やほかの成功事例を追うのではない、ほかの都市とは異なる個性が
必要でしょう。日本の商業地の場合、住宅地のようにすべてを統一することが必ずしも重要ではない。一定のルールを設けつつ、その範囲のなかで、それぞれが本当に自由に建物をデザインしてきた。しかし結果的に、全体として魅力的かというと必ずしもそうではない。一方で、つくり込むばかりでなく、まちの個性を阻害しているものを議論して、取り除くことも必要ですね。戦前には「都市美」と対になる概念として、「都市醜」という言葉が用いられました。電線や張り紙の類など、醜さの原因となる邪魔なものを撤去したり、清掃を徹底することが議論され実践されました。
近年、昭和のまちなみをアピールしている地方都市の商店街では、高度経済成長期などに設置された看板類を取り除くことで個性化を果たしました。まちの顔づくりとは、厚化粧をぬぐい去って“すっぴん”になって、実に単純に、わがまちにしかない素材を確認することから始まるのではないかと思います。
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