情報誌「ネルシス」 vol.8 2007

P-16 「対談」どんな仕掛けがまちを楽しくするか…橋爪紳也・竹沢えり子
P-24 長谷川浩己―まちに佇める居場所をつくる

P20-23
目次
時を越えた美しい景観を求めて
大阪・船場のまちを緑と文化で蘇生させる 二見恵美子

大阪の中心街区、船場。大阪は、大正14年(1925年)に人口、面積ともに日本一を誇り、昭和にかけて「大大阪」と呼ばれていた。船場も商人の街として栄え、近代建築が生まれた。しかし、バブル到来でそれらの多くが取り壊され、船場のまちは昔の面影を失っていく。
「故郷を蘇らせたい」という一心で、景観デザインに取り組んできた二見恵美子氏。緑で現場を彩る手法は人々を魅了し、その行動力に周囲は動かされ、船場が少しずつ生まれ変わりはじめた。
ランドスケープデザインへと
目覚めさせた
イギリスの風景
大阪市中央区淡路町、地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅を最寄り駅とし、三休橋筋と交わる淡路町通り近くに、大正ロマンの趣を漂わす「船場ビルディング」がある。このビルの4階に、環境デザイン設計事務所「E.M.I.PROJECT」を構えているのが景観デザイナーの二見恵美子氏だ。そして船場ビルディングの屋上が、二見氏が日本でランドスケープデザイナーとして活躍する出発点となった場所でもある。
 二見氏は祖父母の代から船場で暮らす浪速っ子。大学卒業後、デザイン関係の仕事をしていたが、あまりの忙しさに自分を見失いそうな危機感を覚え、いったん仕事から離れることを決意する。そこで、充電のつもりでヨーロッパを巡り、十代で旅して印象に残っていたイギリスへ向かうことに。訪れた湖水地方はピーターラビットの作者、ビアトリクス・ポターの寄付によって、ナショナル・トラストが1930年当時と変わらぬ風景を守り続けていた。
 「こんなに美しく静かな場所があるんだと感激しました。
フェリーもモーターは使わず、ロープで引き寄せて川を渡る習慣が今も残っている。イギリスでランドスケープデザインという造園手法が生まれたのは産業革命と同時期。工業化が進むなか、破壊してばかりでは駄目だと反対に景観を重んじる動きが出てきたのです。そのランドスケープデザインの手法とは“自然風景式庭園”。建築で余った空間をデザインするのではなく、その土地がもつ特徴、地形、地質、植物の適性などを考慮し、持続可能な景観計画をすることなんです。そんなイギリスの姿を見て、古く良質な建築物も

スクラップ&ビルドで壊されていく大阪のまちを蘇らせたいという強い気持ちがわいてきて、その後、イギリスへ渡り5年間勉強に励みました」とランドスケープデザインに取り組むきっかけを語ってくれた。
緑あふれる屋上庭園で
建物を蘇生させる
帰国後、独立事務所を開設したのが大正14年に建てられた船場ビルディングだった。当時、パティオ風の中庭には雑然と荷物が置かれ、入り口の扉も味気ないサッシ戸が取り付けられるなど、ただの古ぼけた
ビルだった。二見氏は、文化遺産ともいえるこのビルを蘇らせようと、大正当時の姿に戻し屋上庭園をつくることをオーナーに提案するがバブル全盛期で、あっさり断られてしまう。そうこうしているうちにバブルは崩壊し、船場ビルディングには空室が目立ちはじめ、売却しようにも売れない状況になってしまった。今度は心配になったビルのオーナーが二見氏に相談する番だった。
 二見氏はさっそく改装に取りかかった。玄関ファサードを修復、中庭には緑を置き、ビル全体の色彩およびサインの統一……。
屋上庭園は、自費を投じてつくり上げた。そして、1998年5月末には屋上庭園「ARCOURT」をオープン。ちょうど、英国祭が開催されていたこともあって、イギリス大使館の公式行事に認定され、オープニングに招いたマスコミ関係者が、古きよき姿に生まれ変わったレンガ張りのビルと屋上の庭園を記事にしてくれた。その後もNHKの番組で取り上げられるなど話題となり、見学者も増加。2001年には文化庁の登録有形文化財に指定され、船場ビルディングは2、3年の入居待ちというほど、人気スポットに生まれ変わった。

Top > P22
P22

上●大阪シティエアターミナルビル(OCAT)の屋上庭園。ビルの上とは思えない見事な庭が広がっている
下左●屋上エレベーターのドアが開くと広がる四季のゾーン。こんもりした緑をテラス席で楽しめる
下中●屋上庭園はボランティアが園芸実習しながら手入れをしている(写真提供:E.M.I.PROJECT・二見恵美子著『ランドスケープスタイル』より)
下右2点●季節の草花を愛でながら散歩ができる。買い物や仕事の合間に、ふらっと立ち寄れる都会の憩いの場

 その手腕を買われ、次に手がけたのが大阪シティエアターミナルビル(OCAT)の屋上庭園だった。第三セクターが運営するOCATはバブル時代に建てられた難波の駅ビルで、屋上庭園の話が持ち上がった1999年には巨額の赤字を抱えていた。二見氏は「植物が自生する庭」を目指し、2000年、4600m2の屋上に200種1万株以上の植物を植え、緑豊かな庭園を誕生させた。屋上庭園完成後、その効果で売り上げが約10%伸びたというのだから、緑で彩られた美しい景観が、
いかに人々を動かす力をもっているかが伺える。二見氏は施工後も「持続可能な景観計画」の考えのもと、ボランティアを募り、自ら園芸指導を行いながら植物の手入れをし庭園を維持している。ボランティアには、プロフェッショナルな手ほどきが受けられると好評だ。7年たった現在、植物は見事に生長し大阪の繁華街のオアシスとして親しまれている。
 「良質なものは壊さず保存しながら活用すれば、人は戻ってくるはずです。目先のことだけで計画したものは
飽きられるのも早い。長く楽しめる本物をつくりたい。だから引き渡し後も緑を保つためアフターフォローは欠かせないのです。日本では環境教育が遅れています。庭園を手入れすることで一人でも多くの方が環境のことを考えてくれれば。良しと思ったことはすぐに実行、先義後利、結果は後からついてくると思って仕事をしています」と話す二見氏。公共施設のランドスケープデザインにとどまらず大阪のまちづくりにまで活動の場が広がっていった。

大阪人の心意気で
まちは素敵に変わっていく
中之島では2008年に中之島新線が開通する予定だ。中之島高速鉄道(株)が、東西3kmにおよぶ中之島に4カ所の新駅をつくるため、大川の下にトンネルを掘り、大規模な地下鉄の工事を進めている。二見氏は、この工事現場を“見る見られる新線工事”“工事を実況中継する”をコンセプトに景観デザインをコーディネートしている。工事現場を囲う塀に古レンガや木を用い、大川の上には遊歩道を仮設し緑化、風力発電による夜間のライトアップと、中之島の景観を損なわない“居心地のいい”工事現場を実現した。
 また、事務所近くの船場・三休橋筋エリアの再開発にも力を注いでいる。この周辺には大阪市中央公会堂や福沢諭吉が学んだ適塾など歴史的建造物が数多く残るが、観光資源や文化的なエリアとして十分に機能していない。三休橋筋を魅力ある通りに生まれ変わらせることで船場を活性化しようと2002年、役所にまちづくり再生プランを提案した。これに対し、市は本格的に取り組みを実施。以来、歴史的建造物の保存活用、道路整備、電柱の地下埋設、街路樹の整備などが進められている。

左●船場ビルディングの屋上庭園「AR COURT」。古いだけの建物が魅力あるスポットに生まれ変わった。*現在は閉園 右上●再生前の中庭。自転車や荷物などが置かれ雑然としていた(写真左ともに写真提供:E.M.I.PROJECT・二見恵美子著『ランドスケープスタイル』より) 右下●現在の中庭。緑とベンチを配し、おしゃれな空間に

左●中之島新線工事現場(写真提供:E.M.I.PROJECT・二見恵美子著『ランドスケープスタイル』より) 
右●三休橋筋に設置された本物のガス灯。柔らかな光が通りを美しく照らす

20年来の大阪市中央公会堂の保存募金など、二見氏の積極的な活動が地域の同じ志をもつ人たちと環を広げ、2006年には大阪ガスによる本物のガス灯50本の寄付が実現する。
 「大人がそぞろ歩きできるような穏やかで素敵な通りにしたいですね。流行っては廃るものではなく、長期間で本物をつくりたい。まちの品格を守るためには、そのまちの人たちが本気で守っていかなければならない。
かつて船場には市民の寄付による立派な建造物も多くあり、昔はそんな気骨のある人が多かったと聞きます。今、その大阪人の心意気が発揮できていません。けれど、未来の姿が見えてくれば、みんな賛同してくれるはず。三休橋筋のまちづくりが、後世に続くような都市計画のモデルケースになればと思っています」。
 ひとつのビルの再生・屋上緑化から始まった取り組みは、
新旧を調和させ、蘇生させることで、新たな魅力を生み出すまちづくりへと発展していった。
 美しいものへのこだわりと生まれ育った地元を愛する気持ちが、二見氏の原動力となっている。

Top > P22