情報誌「ネルシス」 vol.8 2007

P-24 長谷川浩己―まちに佇める居場所をつくる
P-30 Photo Essay

P28-29
目次
ストーリーが育まれるまち
枝川公一 ノンフィクション作家
プラハの市街を割って流れるヴルタヴァ川。その東岸沿いにアール・ヌーヴォーの建築が連なっている。ファサードの彫刻群が楽しい。幼児、裸の男や女、花々、聖人。街全体が建築博物館ともいわれるプラハを代表する「展示室」である。
 その一角に、なんの前触れもなく現われる超現代建築。ガラスと鉄骨がねじまがり、全体が傾ぎながら、踊っているようでもある。実際、設計者のひとりは、二十世紀の末に完成したこのビルに「ジンジャーとフレッド」の愛称を与えたという。ダンスの名コンビ、ジンジャー・ロジャースとフレッド・アステアのことである。
この躍動する建物には、圧制から解放され、自由化の喜びに沸いたチェコの人々の気分が表われているのであろう。
 アンティークな街並みをたっぷり歩いた末に、スーパーモダンに逢着する。街並みを突然に切って、時間を飛ばす――。都市計画者の明快な意志が感じられる。そして、ファサードを飾る彫刻群と「ビルのダンス」とから、歩行者自らがストーリーをつむぎだすことを求められている気がした。見事な連なりである。
 これだけ貪欲なストーリーへの指向性を、日本の都市に見いだせるであろうか。
銀座で三十年近くバーテンダーをしている人が嘆いていたことがある。「このごろの若い人がよく、印刷した紙を持って店に来るけれど、あれには困る。なんとかならないかね」と。つまり、ネットで店の場所を探し、プリントアウトした地図で道順をたどりながら、店までやってくるのである。
 「ぶらぶらしながら、探し探しして、たどりついてくれたら、気分がちがうのに。地図の矢印だけが頼りというのでは、地下鉄の駅と、うちの店が隣同士のようなもので、面白味がない」
 このバーテンダーは、街のストーリーのなかに、

自分の酒場が組み込まれることを望んでいるのである。ところが客は、地図に目を凝らして一直線にやってくる。ストーリーどころではない。さらに、最近のケータイ地図になると、プリントアウトさえしないのだから、街は、画面上に現われては消える記号の群れでしかなくなる。
 こうなると、街との付き合いが欲望のストレートな充足へと収斂される。ネットで見つけて出かけたバーのことを、「ああおいしかったね」と言い合った後は忘れてしまうようにして。
ぼくのような都市歩行者にとって、街はさまざまな楽しみを提供してくれるけれど、
なかでももっとも大きな楽しみのひとつが、ストーリーづくりをそそのかされることである。建物も、道行く人も、動物や植物も、どれもこれも、そこに登場してくる。ストーリーには、筋書きがあるものばかりではない。驚きや喜びの一瞬の表現である場合もあり、静止した一光景であることもある。
 最近の東京で、豊かなストーリーの数々に出会うのは、湾岸地域である。そこは、ストーリーづくりのための素材に事欠かない。
新橋あたりから、新交通ゆりかもめに乗ってみよう。レインボーブリッジを越えて、
台場に入ったら、適当に下車する。よく知られるのはホテルやショッピング施設がある海べりだけれど、これらに背を向けて、「内陸部」に入っていく。するとたちまち、前方に広大な草原と林がひろがっているのに出会うはずである。花が咲き、青々と葉が伸び、若い木々が生い茂り。
 この光景に遭遇したとき、ここに、一日一組だけ大道芸人を招いて、思う存分に芸を披露してもらったらどうであろうか、と考えた。台場の自然と大道芸の組み合わせから、さまざまな夢想がひろがるではないか。
 さらに先に進み、ゆりかもめの終点に展開するのは、

高所得者向けのマンションが目立つ再開発地域、豊洲である。そのショッピングモールの賑わいを脱けた途端、夕陽ポイントが出現する。運河の向こうに夕陽が沈む。この水面に向かって傾斜する芝生には、点々とベンチが置かれている。他人の邪魔にならなければ、寝転んで夕陽を眺めることもできるであろう。
 ここからどんなストーリーにつながっていくか。ひとりだけで見上げる夕陽、ふたりで、あるいは数人でおしゃべりしながら対面する夕陽、それぞれに、生まれてくるストーリーの質はちがう。いずれにしても、くすんだ色合いの都心部に落ちていく夕陽に心を動かされ、ふだん思わないことが
思い浮かぶかもしれない。
 ぼく自身の好みを言うと、湾岸地域でストーリーへの渇望をもっとも触発されるのは、葛西臨海公園である。千葉方面に向かう郊外電車が、地下から高架へ投げ出されてすぐの海側に、それは展開する。この公園があるのは、東京ディズニーランドのすぐ手前というところも、なにか象徴的である。
 園内を海に向かって歩くと、透明のボックス型展望台がたちはだかり、そこからうっすらと水平線が望める。さらに海辺に至れば、人工砂州の向こうに、水平線はさらにはっきりと見えてくる。
 高架鉄道の車内で、眼下にひろがる緑の公園を
眺めた瞬間から、海べりで沖合の水平線を望むまでに、画面が何度も切り替わる気がする。そのたびにストーリーが浮かんでくる。
先の銀座のバーテンダーは、若い客たちが街を見ようとしないことに不満を述べていた。その言い分をもっともだと思いつつ、歩いてストーリーが思い浮かぶぐらいに魅力のある街かどうかを、まず問う必要があるかもしれない。干からびた街には、干からびた視線しか向けられない。
 豊かなストーリーが育まれる可能性のある都市をつくりだすこと、それは、そこに生きているぼくたち次第なのだから。

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